2016年5月6日金曜日

三輪清浄(2)



(前回から続く)

3.三輪清浄のチェックポイント

三輪清浄についてある回答者が、インターネット上である質問に答えて、こう指摘していました。

「布施は単なる寄付行為ではないのですね。正しい布施(三輪清浄の布施)は天の蔵に徳が積まれることになりますが、そうでない布施は単なる寄付にしかならないということですね。生きている間はわからないことですから難しい問題ですし、悪い意味でそこに付け込む隙もありますね。」

確かにその通りだと思います。悪い意味でそこに付け込む隙があると思います。

K教団の信者の方々は、布施をしてすがすがしい気持ちになり、心が軽くなり、悟りが上がっている実感がありますでしょうか。
布施した時は興奮していてそう思うかもしれませんね。

でも布施をしたのち、はたしてどれぐらいの期間清々しい心を保てているのでしょうか?
時間の経過とともに変質してくる思いであれば、三輪清浄ではなかったということです

布施をすればするほど、名誉欲が増したり、恐怖心が増大したり、人と比較して苦しむ心で一杯になったり、みじめになったりすることはなかったでしょうか。布施が三輪清浄であれば、そんなことは起きないはずです。

布施をした時、さらにそれを後に思い出した時に、自らの心が正直に感じていることを味わってほしいと思います。そうすれば本物の三輪清浄の布施か、それとも真っ赤な偽物か、真実が判定できるからです。

4.後悔しないために

K教団では特に一千万円以上の高額の御布施をした方は、植福菩薩という称号をもらいます。
本当に菩薩の心になられているのでしょうか?
謙虚に自らを振り返って、本当に菩薩の境地に達していると思いますか?
客観的に見て、その方は本当に菩薩の境地におられるのでしょうか?

特にいつまでも植福菩薩であることを誇りに思い、記憶していることは、実は三輪清浄に反しているので注意が必要です
いつまでも覚えている布施は、仏教では三輪清浄とみなされません。

大般涅槃経に、「布施をした人、布施を受けた人、施した物、その三つを瞬時にお互いが忘れることが最上の布施である」と説かれています。
その心は、こういうことです。
「施しても施したという思いを起こさず、ことをなしてもなしたという思いを起こさない。ただ、それが賢いことであり、正しいことだからするのである。それは、母親が一枚の着物を愛するわが子に与えても、与えたという心を起こさず、病む子を看護しても、看護したという思いを起こさないのと同じである。」(大般涅槃経)

ですので、植福菩薩になったことが長く記憶され、自分を特別視する思いが出たり、周りも特別視を助長する行為をなすならば、三輪清浄とは言えません。

布施をして一時はよろこびに興奮していても、三輪清浄がなければ、あとで必ず後悔が出てきます。

施物であるお金が、ご主人に内緒で貯金や保険をひきだしていたものであるなら、施物の汚れにより、内心の後ろめたさに苦しむこととなります。
受者である教祖や教団が欲望でお金集めをしていた姿が見えてくると、大切なお金を無駄なことに使ってしまった後悔にさいなまれることになります。

そうした苦しみ、後悔のない、布施したことも忘れるすがすがしい布施こそが、三輪清浄なのです。


人生を後悔をしないためにも、三輪清浄の精神について、深く思いを致し、振り返っていただきたいと思います。そして三輪清浄に反した布施は、強要されても決してしないことが大切だと思います。

2016年5月4日水曜日

三輪清浄(1)



1.事業欲と金集め

最近K教団をやめた人の話をいろいろ伺っていますと、支部から送られてくるメールには、布施をせよ、布施をせよと、お金の話ばかり書かれているといいます。お金集めがどんどんエスカレートしてとどまることを知らないようです。

信者数が減少する中で、事業欲はどんどん肥大化していくので、信者への金銭の要求がエスカレートしていくのだと思われます。

K教団の教祖はかつて、オウム真理教を批判する中で、宗教は教祖の事業欲がかちすぎて信者の規模がその負担に耐えなくなると、その宗教は金集めのために極端なことをやり出すので警戒が必要だという趣旨の話をしました。K教団の現状を聞くにつけ、この話が思いだされます。そして危惧を感じるのです。

さて、前回のブログでご紹介しましたが、現在20人の元信者さんがK教団相手に納骨壇申込金や生前永代供養の申込金の返還訴訟をされています。K教団ではこうした返還訴訟の動きに対抗して、「〇〇〇は御布施なので返還を受けようとは思っていません」という趣旨の書面を書かせているようです。これは言うまでもなく訴訟対策だと思われます。

こうした動きを聞いて、仏教の布施の理念である「三輪清浄」について、あらためて考えてみました。

2.三輪清浄と天の蔵

「三輪清浄」についてインターネットで検索してみると、次のような簡略でわかりやすい説明がありました。

「三輪空寂ともいい、布施においては、与える者、受け取る者、布施される物のいずれも(三輪)が清浄でなければならない、というもの。
与える者が見返りを期待したり、受け取る者が欲望にとらわれていたりするようなら、それは商取引であって布施ではない。布施は、人の欲の心や執着心を離れなければならないのである。」

納骨壇の申し込みや、生前永代供養の申し込みは、もともと教団から対価としてのサービスの提供を受けることを期待して支払うお金ですので、厳密にいうと上記の意味での三輪清浄の布施には当たらないはずです。サービスの提供という「見返り」を「期待」して出されたお金だからです。
にもかかわらず、K教団がそれを「対価のない布施だ」というのは、税金対策です。

さて、信者に将来の返還請求権を放棄させるための書面の強要は、信者を「疑」を抱いて見ていることを意味します。信者の信仰心を疑っているわけです。これは受け取る側の心に汚れがあることにならないでしょうか。いったん受け取ったお金は絶対に返還したくないという、猛烈な「執着」が透けて見えるのではないでしょうか。

K教団は、教祖や職員の欲が非常に強いと思います。そして、その欲望を満たすために、目標必達を強制して、恐怖心をあおりながら信者を家畜化していく。それが、冷静にみると、K教団の真実の姿ではないかと思います。

布施が集まらないと天変地異が起きて不幸が広がるという恐怖の予言をして、恐怖心をあおって布施を集めるのは、悪魔が信者を奴隷化する行為であって、仏とは真逆の行為であることを見抜かねばならないと思います。

受け取る側が清浄でない以上、三輪清浄はありません。布施の受者として失格です。

仏教修行者が信者の布施を受け取るのは、信者の方に心の世界に功徳を積んでいただくことを願っての行為でなければならないはずです。原始仏教では悟りを開いた修行者(阿羅漢)への布施は、大いなる功徳をその信者にもたらすと説かれていました。だからこそ、真剣に修行に打ち込み、悟りを探究することが、布施を受け取る修行者に課せられた責任であったと思います。はたしてそういう気持ちが、K教団の「出家者」の方にあるのでしょうか。

もう一つ、原始仏教では衣や食料が施物の主なものでしたので、修行者は無執着の心で、どんな布施でも差別せず、施者の幸せを願って受け取るということが修業であったと思います。現代で言えば、わずかの額を布施する信者に対しても、高額の布施をする信者に対しても、ひとしく平等の心で接するということです。

K教団の現実はこれとは真逆です。高額な布施をする人は優遇し、褒め称え、わずかの布施しかできない人は冷遇されています。お金がない信者は、いつもみじめな思いで支部に通うことになります。これはK教団の現実です。ここには三輪清浄の精神はありません。

三輪清浄の布施でないということは、天の蔵に功徳が積まれていないということです。「あの世に還ったとき、自分は天の蔵に徳を積んでいるので、来世は豊かな暮らしができる」と信じていた信者は、死んだあとで、霊界にある天の蔵の中が空っぽであることに気づいて愕然とされるのではないでしょうか。

(次回に続く)