2016年5月4日水曜日

三輪清浄(1)



1.事業欲と金集め

最近K教団をやめた人の話をいろいろ伺っていますと、支部から送られてくるメールには、布施をせよ、布施をせよと、お金の話ばかり書かれているといいます。お金集めがどんどんエスカレートしてとどまることを知らないようです。

信者数が減少する中で、事業欲はどんどん肥大化していくので、信者への金銭の要求がエスカレートしていくのだと思われます。

K教団の教祖はかつて、オウム真理教を批判する中で、宗教は教祖の事業欲がかちすぎて信者の規模がその負担に耐えなくなると、その宗教は金集めのために極端なことをやり出すので警戒が必要だという趣旨の話をしました。K教団の現状を聞くにつけ、この話が思いだされます。そして危惧を感じるのです。

さて、前回のブログでご紹介しましたが、現在20人の元信者さんがK教団相手に納骨壇申込金や生前永代供養の申込金の返還訴訟をされています。K教団ではこうした返還訴訟の動きに対抗して、「〇〇〇は御布施なので返還を受けようとは思っていません」という趣旨の書面を書かせているようです。これは言うまでもなく訴訟対策だと思われます。

こうした動きを聞いて、仏教の布施の理念である「三輪清浄」について、あらためて考えてみました。

2.三輪清浄と天の蔵

「三輪清浄」についてインターネットで検索してみると、次のような簡略でわかりやすい説明がありました。

「三輪空寂ともいい、布施においては、与える者、受け取る者、布施される物のいずれも(三輪)が清浄でなければならない、というもの。
与える者が見返りを期待したり、受け取る者が欲望にとらわれていたりするようなら、それは商取引であって布施ではない。布施は、人の欲の心や執着心を離れなければならないのである。」

納骨壇の申し込みや、生前永代供養の申し込みは、もともと教団から対価としてのサービスの提供を受けることを期待して支払うお金ですので、厳密にいうと上記の意味での三輪清浄の布施には当たらないはずです。サービスの提供という「見返り」を「期待」して出されたお金だからです。
にもかかわらず、K教団がそれを「対価のない布施だ」というのは、税金対策です。

さて、信者に将来の返還請求権を放棄させるための書面の強要は、信者を「疑」を抱いて見ていることを意味します。信者の信仰心を疑っているわけです。これは受け取る側の心に汚れがあることにならないでしょうか。いったん受け取ったお金は絶対に返還したくないという、猛烈な「執着」が透けて見えるのではないでしょうか。

K教団は、教祖や職員の欲が非常に強いと思います。そして、その欲望を満たすために、目標必達を強制して、恐怖心をあおりながら信者を家畜化していく。それが、冷静にみると、K教団の真実の姿ではないかと思います。

布施が集まらないと天変地異が起きて不幸が広がるという恐怖の予言をして、恐怖心をあおって布施を集めるのは、悪魔が信者を奴隷化する行為であって、仏とは真逆の行為であることを見抜かねばならないと思います。

受け取る側が清浄でない以上、三輪清浄はありません。布施の受者として失格です。

仏教修行者が信者の布施を受け取るのは、信者の方に心の世界に功徳を積んでいただくことを願っての行為でなければならないはずです。原始仏教では悟りを開いた修行者(阿羅漢)への布施は、大いなる功徳をその信者にもたらすと説かれていました。だからこそ、真剣に修行に打ち込み、悟りを探究することが、布施を受け取る修行者に課せられた責任であったと思います。はたしてそういう気持ちが、K教団の「出家者」の方にあるのでしょうか。

もう一つ、原始仏教では衣や食料が施物の主なものでしたので、修行者は無執着の心で、どんな布施でも差別せず、施者の幸せを願って受け取るということが修業であったと思います。現代で言えば、わずかの額を布施する信者に対しても、高額の布施をする信者に対しても、ひとしく平等の心で接するということです。

K教団の現実はこれとは真逆です。高額な布施をする人は優遇し、褒め称え、わずかの布施しかできない人は冷遇されています。お金がない信者は、いつもみじめな思いで支部に通うことになります。これはK教団の現実です。ここには三輪清浄の精神はありません。

三輪清浄の布施でないということは、天の蔵に功徳が積まれていないということです。「あの世に還ったとき、自分は天の蔵に徳を積んでいるので、来世は豊かな暮らしができる」と信じていた信者は、死んだあとで、霊界にある天の蔵の中が空っぽであることに気づいて愕然とされるのではないでしょうか。

(次回に続く)

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