2015年12月17日木曜日

(投稿)私がKKを退会した理由



(紹介)

KKを退会されたある元会員のCさんから投稿をいただきました。CさんがどうしてKKがおかしいと思われ退会を決意されたのかの理由は、教団や信者の病んだ側面をあぶりだしていると思います。KKを退会しようかどうか迷っている方々の参考になることを願います。

(投稿)私が退会した理由

洗脳!

私がKKを退会したのは十年近く前だったと思います。

私は会員をしていた頃から現在もコーチングを教える仕事としております。会員だった頃はKKの働く女性の会のイベントの講師として近隣の支部を回ることもしておりました。ですので、私の仕事のクライアントとして、KKの会員の方達がお見えになることはめずらしくありませんでした。

退会した当時は、自分の仕事のインストラクターの養成と育成等をしていましたので、以前ほど熱心に支部活動はしていなかったのですが、来られる会員の方達のお話しをうかがう機会には恵まれていました。

本当に多くの方がお布施のために借金やローンを組んでいたり、自分がお布施をするために好きでもない人と結婚したりしているということを知りました。

私が長く所属していた支部の私のいた地区ではそういう話しは聞いたことはなく、自分もそこまでしてお布施するとは考えたこともしたこともありません。最初は信じられませんでしたが、違う方から何回も聞くことがあり信じることにしました。

おまけに自分達がおかしいという感覚が全くないように感じ、マインドコントロールされているということに気づきました。

リーダー会員の実態!

KKのある支部の支部長から、婦人部の主要メンバーの教育をしてほしいと頼まれて、私はボランティアとして支部で数名のグループを指導しました。その時に経験したことが転機となりました。

その時に、支部の婦人部の主要な数名の方にコーチングをさせてもらいました。対象はある程度年配の方で、複数の方を同時に指導させていただきました。その中のお一人の方は億単位のお布施されている菩薩信者です。

そのときに、生まれた時から現在までを一枚の紙に点数化して表していただきました。マイナス100点からプラス100点の間で、自分の今までの人生を振り返って自分で思い出に残る出来事に点数をつけてそれを線でつないで人生のグラフを作っていただきました。

参加者の全員が、共通してマイナス点が多くてプラスの出来事が少ないと思いました。高額のお布施をされている方でも思ったよりも喜びは少なくて、将来への不安が強く、幼少時から家庭内での承認欲求、賞賛欲求が満たされず、心の傷を持っているとのことでした。

他の方達もそれぞれに同じように、承認欲求が満たされない人生を歩んできていると思っていらっしゃったように思います。

私は、彼女たちに書いていただいたものをもとに質問して各自に説明いただいた時に、彼女達が今幸福と言える状態にないことを知りました。さらに関心事項が自分中心で視野が狭いことも特徴だったように思います。いろいろなものを見ないように思考が制限されているように感じたので、「洗脳されているのではないだろうか」という印象を持ちました。

結局、その時に、婦人部の主要メンバーの方達の自己肯定感の低さや褒められたいという気持ちの強さを知り、KKの説く真理とはなんぞや? という疑問をもったのです。何年もKKという宗教に身を捧げていらっしゃるのにも関わらず、あまりにも一般的、俗物的な問題を抱えていらっしゃることに、疑問をもったからです。

「この方達が自分の幸福をつかむということはこのKKから離れることを意味するのではないか」と思いました。退会した年の春の話です。

裸の王様!

その夏の選挙の講演会では、教祖のドタキャンがあり、仕事の取引先のグループの支配人をお呼びしていた私は、理由を聞きたくて総本部に電話したのです。しかし、たらい回しにされたあげくバカにしたような対応で、これで通用すると思うこの教団の甘さと頭の悪さに驚きました。その後のビデオ会でも、教祖本人は出て来ることなく側近のあきれる幼稚な言い訳を聞いて、教祖の人間性の低さと人間の心理の読めなさに改めて恐れ入り、退会しようと思いました。

裸の王様‼ って本当にいるんだ」と知りました。人をバカにし過ぎです。ご自分のレベルが高いと思い込んでしまっているから物事や人間を客観的に見れないのだろうと考えています。

以前から霊言等のお話で誰々に悪霊が憑いているとか誰々の前世は誰々という類の話しに対して、「それって先に言ったもん勝ちじゃない?」「ナンカ変」と私の場合、極めて人間的な観点から常々疑問に思っていました。ですので、退会するにあたって教祖への信仰心は全くありませんでした。

ある支部では、セミナーで総合本部の講師の方が来られると支部長はペコペコし過ぎるのを目にしました。さらにこれまでのお布施の額で、本部の講師の方の会員に対する態度が目に見えて変わるのには本当に驚きました。
支部長に直接、どうして本部の講師にはそんなにペコペコするのか伺ってしまいましたが、納得できるようなお答えはいただけませんでした。

こういうことが積み重なって、私は退会しました。

決別!

今思うのですが、自分を含めて、KKの信者の方たちの多くは機能不全家庭の出身者で、人格形成の基本となる親からの「無条件の愛」というものを体験しないまま成人している方が少なくないのではないかと思います。失礼ながら職員の方達も。恐らく、教祖も教祖の前の奥様もそうなのかもしれないと思います。

職員の方達と教祖は信者に依存していて信者をコントロールしていますが、信者も共依存状態になっているのだと思います。そして、両方共に自己確立がなされないまま時間だけが過ぎているように思います。

私自身は、機能不全家庭に育ち、自分が悪いのだとずっと思い込んできましたが、何かがおかしいと気づいて自己確立への道を歩んでいくために、一時的にKKが必要だったのだと思います。


最終的には欲しくない納骨壇を買わされたり、支部等で不当な扱いをされることで、KKが本当におかしいと気づいて退会することができたことはラッキーだったと考えています。それにより、それまで常に自分が悪いのだと思い込まされそれを信じてきたニセモノの自分がいることをようやく認識できて、KKと訣別できたからです。(C

2015年12月16日水曜日

(投稿)脱会者からのメッセージ  悪魔視は洗脳教団の特徴③



(投稿・前回から続く)

3.悪魔視から逃れるには(続き)

②霊的な方は、客観的な霊的事実のみを認識するべき

悪魔悪霊が憑依しているからといって、その人は悪魔悪霊ではないという見方をまずしなければ、悪魔視は消えません。K会初期の頃は、私は客観的な事実として認識している状態で、悪魔視はしていませんでした。いつの間にか、悪魔視になっていきました。強く憑依されているような方を見れば、悪魔的に見えるのですが、悪魔ではないのです。
以前、「悪魔の手口を知る」という投稿の注釈で、種村氏が悪魔と言われる存在も元は神の一部(神により創られた存在、悪魔も元は神の子)である事を思えば、恐怖する存在ではないというような意味の注釈があったかと思います。その通りで本来は、悪魔さえ、悪魔と見なさない見方(正見)が正しいと思います。ただ、その完全な認識には、高い悟りが必要だと思います。

私の経験から見れば、通常は、実際に悪魔に遭遇すれば、最初は十中八九、恐怖心が先立つと思います。霊的な方で邪悪な悪魔に遭遇された方には、悪魔は様々な現象を起こして、心への妨害をしてきます。ですから、客観視するのは難しいのですが、対人に対しては可能だと思います。
その為には、K会流の客観視を捨てて、根底に愛の目を持った客観視が必要だと思います。愛の目を持った客観視で、悪魔も元は神の子であり、現在も神の子であるという目が、悪魔に対して少しでも出てきたならば、恐怖心は薄れていきます。

しかし、悪魔は非常に邪悪な面がありますから、悪魔に害されないように防御する必要があります。力が強い邪悪な悪魔の場合、降魔退散させる必要があります。悪魔は簡単に、改心しません。襲ってきます。恐怖せず、心に隙を作らず、即ち強い信仰の信念で、守護霊や神に一心に祈る事が大切です。自分だけの力だけなら、私はとっくにこの世にはいないかもしれません。

余談ですが、K会の「仏説・降魔経」に確か、「汝らも(悪魔も)元は人間なり、仏性その身に宿すなら仏の慈悲がわかるはず」と書いてあったのを記憶していますが、これは厳密に言えば誤っていると思います。「悪魔は、元は神の子である」という認識が正しいと私は思います。生命が創造された時より、神の子です。「仏の慈悲がわかるはず」と悪魔に主張しても、神に反抗しているのが悪魔ですから、慈悲を感ずる心と逆の心があります。中々、解ろうとはしないのです。仏の慈悲を悪魔に押し付けるより、悪魔自体が「自分は、元は神の子である」という心を取り戻すような救いの説法が大切だと思います。今思い返すと、あの経典は非常に傲慢に聞こえます。悪魔に対してでさえ、慈悲の心で法を説いてこそ生き神といえます。

③一番大切なのは、愛の目で見ること
 
 人を悪魔視するのは、その教団が愛の思いに欠けているからです。信者を教団に縛り付ける為です。自己保身欲で自己責任から逃れる為です。これでは、絶対に教団の教えは広まりません。
これまでの説明から理解いただけると思いますが、この教団は悪魔視をさかんに信者に教え込むことで、悪魔を大量生産をしようとしているのではないかと感じます。これでは救世の逆であり世界の地獄化です。
救世運動は、人を救済する運動です。人を悪魔視する運動ではないのです。ましてや悪魔をつくる運動であるはずがありません。人を救済するのに、人を選別するのは真の教えではありません。愛の目、愛の眼差しがある方は、救いの言葉、優しい手を差し伸べます。裁きの目がある方は、人を裁きます。我欲の目で人を見る方は、人を愛さずに利用します。自己に有益でなければ、迫害します。
要は、どういう目で見るかが大切ですが、見方において明らかに誤っている場合は、教義が誤っています。
例えば、K会の教義の正見は、正信(=教祖への信仰)が先に立ちますから教祖の見方がそのまま正見になります。事実、信者は教祖を信じて同じように、見、言葉を発します。教祖が種村氏を悪魔と言えば、信者は種村氏に会った事が無くても悪魔視します。
しかし、それは狭い教団内だけの話で、世間で種村氏を悪魔呼ばわりする方は、一人もいないのです。書籍を読んだところで、一笑されるだけです。何故なら、良識ある世間の方は、そのような失礼な事は、決して言わないからです。仮に心で思っても口にはしないのです。これが、良識ある人間の姿です。

 悪魔視から逃れる道は、自己責任の思いをしっかりと持って、人を愛の目で見ることが大切だと思います。尚且つ、霊的な方は、根底に愛の心を持って、憑依等の現象を客観視する必要があると思います。
 愛の目で見るのは、自分自身に対しても同じです。自分や人は、悪魔の子では決してありません。神の子に間違いないのです。悪魔でさえ、神の子なのです。想いによって、天使であり、想いによって悪魔なのです。しかし、天使も悪魔も神の子です。神のわけ御霊です。悪魔は道を誤っているだけなのです。

 悪魔視を堂々とする教団は、真理真実を知りません。仏性、神の子と説きながら、実践が出来ていないのは、真理真実を知らないのと同じです。

まして、人間が悪魔の子という教団は、論外です。元々、人が悪魔の子というのが真実ならば、故郷の悪魔の住処に帰れば良いのです。しかし、実際に人は、悪魔には成れないのです。「あなた、悪魔になりなさい。そして人を害しなさい。不幸にしなさい。」と言われて、積極的に悪魔になりたいとは思えないはずです。悪魔は不幸です。何故ならば、人を不幸にしますから。人はやはり、光り輝くような向上、幸福を目指していくと思います。それが自然な感情だと思います。

悪魔視は洗脳教団の呪いです。悪魔を呼び寄せる呪いなのです。人を悪魔の道へと進ませる呪いです。「これより後、悪魔は粉砕せん」ではなく、それとは逆の現象が起ってきます。だから、教団内は、悪魔に支配されているのです。悪魔視が抜けない限り、幸福は訪れてこないと私は思います。

呪われた洗脳である悪魔視を今すぐに捨てて、愛の目を取り戻して欲しいと思います。そこにこそ、神の光があり、神の救いがやってくるのです。(X



2015年12月15日火曜日

(投稿)脱会者からのメッセージ  悪魔視は洗脳教団の特徴②


(投稿・前回から続く)
 
2.悪魔視は、教団依存を生み、教団に呪縛させる
 
①悪魔視による洗脳には、悪魔の定義と恐怖心が必要

 人は誰しも悪魔にはなりたくないものです。周囲から悪魔と認定されて喜ぶ人はいないでしょう。悪魔視をしている方に問いたいのですが、「あなたは、実際に悪魔を知っていますか?」という質問に対して、どのように答えるでしょうか。中には、「私は、悪魔に遭遇しました。」という方は居られるでしょうが、ほとんどの方が、悪魔を知らないわけです。「言われて見れば、私は悪魔を見たことも感じたこともない。」という方が大部分ではないでしょうか。
そうすると、教祖から「悪魔の定義」を教え込まれた事になります。K会で言えば、「三宝に敵対する者」とか「積極的に悪を犯す邪悪な存在」が悪魔という定義です。K会で「正法が説かれる時、魔が競い立つ」と言われているくらいです。
確かに、悪魔という霊は、存在します。悪魔としか言いようがないくらい邪悪な霊です。ただ、怨念をもったような悪霊の場合、狭い範囲では、積極的に悪を犯す場合があります。K会定義だと、このような場合も悪魔になります。

 又、ある教団では、「人間は、本来サタンの子」という定義を聞いたことがあります(深くは記しませんが)。これは、絶対に大間違いです。「人間が悪魔の子」という思想に洗脳されると、洗脳を解除するのは、かなりたいへんな作業になります。一生涯、洗脳が解けない可能性があります。こういう悪魔視は、単なる悪魔視を超えています。自分も人間ならば、自分も悪魔の子になります。これは、たいへんなことなのです。人類は始まりより悪魔の子になります。ご両親、我が子、身内や友人、会社の同僚、恋人、お世話になった方々、全て悪魔の子になります。これは大変です、世界は悪魔に支配されています。常識的に考えてみて、真剣にそうは思えないでしょう。
しかし、この思想に無理やり洗脳されている人は、本気で信じているのです。大変な洗脳です。その事実から逃れる為には、何でも行うようになっていくのです。特徴は、現実逃避をする為に家族から逃げていきます。自殺の危険性まであるのです。自分を生み育てて下さった優しく善良な両親でさえ、悪魔と見なします。教団以外の人を信じる事が全くできなくなります。
そうなれば、悪魔ではない真の御両親は誰かという事になりますが・・・。

さて話を元に戻しますが、ほとんどの方が実際に、悪魔に遭遇していないし、実感する事ができていません。ですからK会の場合、悪魔に対しての対抗処置を前面に出しています。それが「仏説・降魔経」です。悪魔を利用して、信者に手厳しい恐怖心を与えています。仏陀に逆らったなら「大阿鼻叫喚地獄」に落ちると説いています。悪魔と見なされると、恐ろしい制裁が死後に待っています。そのようになってしまうのが、悪魔という定義でもあるのです。恐るべき教祖は、悪魔さえ利用して、恐怖心で信者に悪魔視を洗脳します

②悪魔視により情報が遮断され、幻想の世界で信者は、教団にしがみつく

 人は誰でも救われたいという思いや世界の平和を願っていると思います。悪魔視を正当化する教団は、信者の純粋な信仰心、救済という願いを利用して、洗脳により教団の利益になる方向に誘導していきます。信者が脱会してしまうと、お金が集まらないので、「恐怖心」と「信仰による救いの保証」で、教団に縛り付けます。
信者は、「自分が救われ、世界を救う」という「仮面」を付けられて、信仰の誤りに気がつくまで苦役を強いられていきます。仮想された幻想の世界を信じて、現実世界に行動を起こしているのです。教団内部の話と現実世界には、大きな乖離が生じる為、教団は信者が埋没している幻想の世界を維持する為に、情報を遮断する手段をとります。悪魔視は、その手段です。

又、別のある教団では、家庭に帰らせないように洗脳して、信者が自信で監禁される方を選択するように誘導していますが、これも原理は同じです。
K会であれば、種村ブログやアンチブログを見ると魔が入ると脅しています。外から見れば、意図的に情報遮断をさせていることがはっきりと解ります。真実や良識的な見解を見る機会、聞く機会を遮断しているのです。
逆にみれば、いったん、組織や教義から離れて、自分の頭で考え、自分の心で客観視(正見)すれば、教団の誤りに気が付き出す機会ができてくることを教団は知っていることになります。つまり、悪魔視は、教団からみて都合の悪い事実を意図的に見せないようにする為のものです。ですから信者の方々には、せめて敵を知る為という趣旨でも良いので、悪魔視をしている相手を研究する為に、種村ブログやアンチブログを見て欲しいのです。そうすれば、教団が敵視している相手の見解や客観的な事実が良く解かるのです。
実は、そこにこそ現実世界での真実があるのです。教団の内だけでなく教団の外を自分の目で客観的に見る事が正見です。その時は、悪魔の導きではなく、神の導きなのです。悪魔の導きは情報遮断、神の導きは正見です。

又、人間は、旧約聖書ふうにいえば土から神の姿を型取り造られたかもしれませんが、その型の中に神の息吹(命)を吹き込まれた存在です。神の息吹とは、神の命です。神の命を吹き込まれ宿しているのが人間です。人間は、神により、神の生命を与えられて創造された非常に尊い存在なのです。人間の先祖はみな神の命を宿す者であり、サタンの生命を宿したサタンの子ではないのです。過去の聖者が説かれた正統な教えを教団の教義と一つ一つ比較確認すれば、真理や法のすり替えが理解できてきます。誰にも邪魔されず、それだけに集中する期間と時間が必要になります。又、協力して下さる人たちが必要です。

又、霊的認識の未熟さから、有り得ない論理を受け入れてしまっている面があります。神的存在は光り輝き、悪魔は暗黒の世界を住処としています。そもそも神と悪魔は、相対する立場ではないのです。全ての生命は、神によって創造されているのです。自分の内を眺め続ければ、神の如き愛があることに気づきます。
生まれて間のない赤子を見て、悪魔には見えないはずです。天使に見えるはずです。ある教団が言うように、人がサタンの子ならば、赤子は悪魔になります。しかし、命をかけて赤子の時より今まで自分を育てて下さったご両親を思えば、悪魔には見えないはずでず。
結局ほとんどの信者は、悪魔を知らないのです。悪魔を実際に知らないから、白紙の中に、悪魔の絵を書かれているようなものなのです。K会の悪魔視も、別教団の人間サタンの子の思想も、悪魔が描かれた色メガネを通して見るように植え込まれているに過ぎないのです。真実を言うならば、両者ともに、人間を悪魔にする教えです。この二つの教団とも、悪魔の製造教団です。だから危険なのです。

3.悪魔視から逃れるには(悪魔視の傾向性の解除)

①私の反省

 私は過去にK会の仏弟子として、必死で法を実践してきました。救世活動という様々な活動を必死で行ってきました。その過程で知らず知らずの内に悪魔視が身についてしまっていたと思います。かつては霊的でもあったので、色々な悪魔体験をしてきました。初期の頃は、悪魔を見ても客観的な認識であったのですが、いつの間にか悪魔に魅入られているような言動をする人を見た時に、悪魔と同様な見方をしていた時期がありました。つまり自分が悪魔化していた時期があったのです。
 これは、信じている教祖が悪魔視をするので、教祖と同様な視点で見るように徐々になっていったのです。教祖の言う事と同じ事を信者は言います。見方においても同様です。「悪魔は仏の救世運動を阻害する者で、仏に敵対する者だから正義の剣で悪魔を粉砕しなければならない。救世運動という大儀の為に、悪魔(悪業)を粉砕しなければならない。」という想いが信者にあります。これは、教祖に教えられたことです。教団に所属している時は、そのように思っていました。このような想いは、伝道の際、教祖の法を誹謗するような方に出会った時、自分の中に、悪魔視の誘惑を誘発していきます。

私は霊的でしたので、実際に悪魔の妨害に遭った事が多々ありますが、本来(初期において)はそれも含めて自己責任であったはずなのに、過度に苦しい時は悪魔視をしていたと思います。「あの人は魔に入られている。」というような感じです。人のせい、悪魔のせいにしますから楽なのです。自分との戦いを放棄して、悪魔のせいにするのです。悪魔視は、心の向上の為の努力を阻害します。
中には憑依されている方がいましたが、仮にそうであったとしても、そういう方の力になるのが本当の信仰者の姿であったはずです。その方は、悪魔悪霊では決してないのです。その方は、何かで苦悩しているのかもしれません。人の苦悩を見ようとせず、悪魔視をするのは、救世活動ではありません。悪魔視は、人の心の悲しみや苦悩を見ようともせず、裁いて迫害します。「波長同通の法則」という偏った法で、「魔に同通する心がある人」として、危険視して遠ざけます。悪魔視に愛はありません。私は、人を裁く傾向が身についていたと思います。

ある日、とても苦しい時に自分に負けて悪魔視をしてしまった時があります。その時に必死に心に言い聞かせて静めた心を見つめると、実は、悪魔は自分に憑依して相手を悪魔視するように指導誘導をしていたのです。一旦、悪魔視すると悪魔に増幅させられ、相手が憎く見えてきます。その時に、悪魔の指導を受けているのは、他ではなく自分なのです。悪魔視は悪魔の指導です。悪魔の指導を呼び込むのは自分自身の悪魔化した心です。
悪魔視は文字通り悪魔の視方です。その事に気がついて、心がすごく楽になって行った事を思い出します。長年、悪魔視を続けていると、簡単に人を悪魔視するようになります。簡単にとは、自分の都合で悪魔視をするようになっていくのです。その方が楽なのです。しかし、これは、非常に危険な状態だと思います。悪魔視が心の傾向性になりつつあるのです。つまり悪魔になりつつあるのです。
K会初期に教祖が説いていたように、原則は自己責任です。私は、しばらく悪魔視のクセが残っていたと思います。クセになるのです。人を悪魔視する、本当に愚かだったと思います。裁いた方に辛い思いをさせてしまい、本当に申し訳なく思っております。

私は、「これからは悪魔視で見ない」と決意して、逆の見方をしていきました。

「人はみな神の子である」という見方です。これは、真なる霊性の復活です。「如何なる者(生命、霊)も神によって命を吹き込まれた存在であり(神の命を内包している存在)、神によって生かされている者である。」というような見方です。自分に対してもまた同じ見方です。人はみな神の心を宿している(仏性、内なる神の魂)、愛の目で見なさい、感謝しなさいと、以前、高級神霊が指導して下さったことがあります。「苦悩を愛するのは止めなさい。人の仏性(内なる神の魂)を愛しなさい。感謝しなさい。」と。

又、「欲と裁きの環境で、誠実で同じ欲に染まらない者が害されるような地獄に見える環境であっても、自分のカルマを克服し、心を成長させて下さる方々を今与えられているのです。その方々のお陰で自分の成長があるのです。心からそう想えれば、そういう環境を与えて下さっている神に感謝して、皆様に感謝できるのです。今の地獄とも思える環境をとても有難いと思いなさい。」という旨を滅多に出て来られない守護霊から指導がありました。

又、しばしばご指導を頂いておりますが、最近、種村氏より、「善悪を分ける心を越えなさい。」というすごい難題のご指導がありました。私は今、種村氏からのご指導を目標にしています。かなり厳しく難しいのですが頑張っています。

 自分が本当に自分の過ちを認めて(反省)、「現在、自分に現れている環境や苦悩はかつて自分が他人にした事である。それが今自分に返ってきているのである。だから全て受け入れて行こう。そして、これからは本当の自分を見出して行こう。今の自分を新しい自分に造り替えて行こう(自己変革)。」と真剣に決意した時に、希望が見えてきます。生きる事への活力が出てきます。神を信じる心が自分を信じる心に変化してきます。洗脳されているが故に、どこからともなく湧いてきた恐怖心が、徐々に消えていきます。
見えない慈悲深い愛の神は、裁くのではなく、必ず慈悲の手を差し伸べて下さるのです。深い闇から光へと導いて下さります。(神の救い)。

ですから、脱会後に、洗脳された心で苦しんでいる方、活動や布施で経済を使い果たして厳しい現実にさらされている方、不借身命でむちゃな活動をして会社を追われた方、対人関係が破壊された方、霊的な方で本物(霊的存在)の悪魔悪霊に害されて苦しんでいる方、恐怖心が抜けず苦しんでいる方、自分に自信が無くなっている方、対人恐怖、対人不信が抜けきれない方、なかなか社会復帰ができない方、「私の人生は終った」と思い希望をなくしている方、神にすがっても神の救いがなく、神に不信を抱き裁いている方、K会への憎しみが離れない方、守護霊等に命を引き上げて欲しいとまで願っている方等、もう一度、自分自身の中に存在している純粋で美しい愛の心を愛して欲しいのです。私は全てを経験してきました。共に頑張って生きて欲しいと願っております。(X
(次回に続く)


2015年12月14日月曜日

(投稿)脱会者からのメッセージ  悪魔視は洗脳教団の特徴①


(紹介)

人を「魔が入った」といって裁き排撃する行為を悪魔視と呼びます。悪魔視は、極端に人を裁く行為であり、相手を悪魔と同一視してしまう行為でもあります。その危険性について、自らの貴重な体験と反省を踏まえた投稿をいただきましたので、3回に分けてご紹介させていただきます。

(投稿)

(はじめに)悪魔視について

 K会は、三宝帰依を全面に打ち出しています。仏・法・僧(K会教祖・K会の教え・K会団体)を拠り所として、日々戒律を守り、正法を実践する「正しき心の探求」を基本としています。正法の中枢には、反省の法である「仏説・八正道」があります。「仏説・八正道」の中に、「正見」があります。「正見」を簡単に言えば、正しい物事の見方です。正しいとは仏(K会ではK会教祖)の説く真理です。つまり真理の目で見るのが「正見」であり、八正道の出発点になります。一見これは仏教の教えにかなった説き方なので正しく見えます。しかし、実際に様々な観点からK会を良識の目で見れば、K会で発展繁栄した方を私は知りません。

 K会は、三宝である仏・法・僧に対して、傷つける事は許されず、大阿鼻叫喚地獄に落ちるとはっきりと説いています。傷つけるとは、誹謗中傷など何らかの言動で三宝を害する行為です。何故、許されないのかといえば、偉大で尊い仏の救世活動を阻害妨害する行為(仏の計画を邪魔する行為)だからと教えられました。それ故に、三宝を傷つける者や傷つけようとする者は、仏に敵対する行為と見なされ、それは悪魔の行為と見なされるようになりました。仏に敵対する者は悪魔であると。悪魔の行為と見なされた者は、悪魔と同じもの(魔に入り込まれている)と見なされるようになりました。K会でよく耳にした、「魔が入った」という見方です。人を悪魔と同等に見なすのです。
これが、K会の特徴である悪魔視です。

当ブログ主催の種村氏もまたK会内では、悪魔と見なされています。私の場合は、K会を脱会しただけで、恐ろしい悪魔使いのように噂されました。恐らくそのように決め付けることによって、現役信者が脱会者の話を聞いて脱会しないように恐怖心を駆り立てて防御しているのだと思います。信者が脱会者に近づかないようにする為でしょう。
 K会教義に照らしてみると悪魔視は明らかに、K会の「正見」に反しています。何故なら、K会は菩薩を目指す集団であり、「菩薩は敵の中にも仏性を観る」と教義では教えているからです。菩薩は、「悪魔視」の体現者ではなく、「許す愛」の体現者と教義に説かれているからです。
かたや、「正見=教祖の目」ですから、教祖自身が行う悪魔視は正しいとなります。要は、教義が首尾一貫されておらず矛盾しているのです。これは、教祖のご都合主義の表れです。繋ぎ合わされて作成された教義であることが良く判ります。

悪魔視と洗脳

最近、私はK会だけでなく、悪魔視をする教団は、洗脳教団だということに気がつきました。悪魔視は洗脳に大きく役立っているように思います。K会を問わず、その教団が正しいか否かを判定する簡単な方法は、全てではないのですが、人間を「悪魔視するか否か」を見てみれば良いかと思います。
恐らくそういう教団は、世間から危険視され、何かを建立する時など、住民の反対を受けるような教団かと思います。世間の良識の目は正しい。危険と見えし言動をするから反対されるのです。世間の良心から逸脱した言動は、まず物事の見方に原因があると思います(「正信=正見」の誤り)。その中心的な要因が悪魔視です。悪魔視が付着した原因や悪影響、そこから脱する方法を、過去を振り返って記したいと思います(Xより)

1.人を悪魔視する方は、洗脳状態にある

①悪魔視は、教祖の説く法であり、信者は入会後に洗脳される

 私はK会に入会する前に他人を悪魔視した記憶がありません。どんなに酷い事をされた時も、「嫌な人」、「酷い人」とか色々心に思う事はありましたが、その程度に留まっていました。K会初期において、仏や法を強く批判して否定する方にお会いしても悪魔視するまでのことは無かったと思います。
年月が経つにつれて、様々なK会の運動がありましたが、そういう外に向けての正義の運動を経て、教団内で悪魔視が強くなっていったように思います。「悪魔の活動を許すな!」のような感じです。仮に教団の教義が正しいと仮定して、「具体的な悪を押し止め、正義(救世運動)を推し進める」という言葉は一見正しいのですが、問題は、教団が認識する悪の見方と正義を行使する心なのです。愛の目で見ているのか、それとも悪魔視か、教導したいのか、それとも裁きたいのか、これで教団全体の心と行いに天地の差がでてきます。K会の場合、徐々に「悪魔視」という見方が定着してきて、いつの間にか、教祖や法、教団を批判否定する人を悪魔視するようになったように思います。

信者に悪魔視が身についたのは、言い換えると悪魔視の洗脳がなされたのは、教祖が悪魔視をして、言葉を発し、書籍まで出版して信者に信じ込ませるからです。つまり、悪魔視は教祖の説く法(教え)が発信源という事になります。K会では、教祖の直説金口は法そのものだからです。ところが、教祖に都合の悪い裁判は、何故か信者に隠しているのですね。悪魔視は教祖が手本を示し、信者に植えつけた見方です。要するに洗脳です。悪魔視は教祖の私情だけでなく、計算された意図的なものを感じます。

②悪魔視は、本当の悪魔を呼び寄せる、悪魔になっていく

教団に入会する前と後で、悪魔視をする傾向が付着した方は、教団の説く偽真理に洗脳されていると思った方が良いと思います。何故なら、悪魔視は、正しい見方(正見)ではないからです。教団は信者の信仰心を利用して、悪魔視を肯定します。霊的現象や想いの結果としての現象に対して、主観を排した客観視をせず、人を本気で悪魔呼ばわりするのは正見ではありません。
例えば、支部が更に素晴らしいものになって欲しいという思いで、疑問や修正して欲しい点を発言したのにも関わらず、「魔が入っている」と言われて迫害された経験があります。正見ならば、「支部が良くなる為に、気がついた点を言って頂いて有り難う。」となります。相手が悪魔には見えないはずです。

悪魔視は、良識的な見方と感謝を排します。相手を押し下げて見下して憎みます。「与える愛」ではなく、相手の心に傷を与えます。他人に対して和解の機会を持たず、きつい言葉で攻撃します。悪魔視は、相手を生かさずに、裁きます。これは、正思、正語に反します。
悪魔視をすれば、悪魔視の見方で行動してしまいます。本当の悪魔は、悪魔視へと誘導します。悪魔視からの行為は、悪魔の行為へと導かれていくのですそこには、必ず自我我欲があります。自我我欲を満たす為なら、悪魔の誘導を正として、法を都合の良いように捻じ曲げてでも事を成して行きます。事実、種村氏は書籍を出版されてまで、信者に悪魔だと風評されるに至りました。これは、正業に反します。四正道の根本、「与える愛」に反します。
また、いくら反省しても悪魔視の傾向がある以上、真の反省はできません。何故なら、自己責任ではなく、悪魔のせいにするからです

霊的な方で、悪魔がいつも近くに寄って来ていると感じて来られた方は、悪魔は、寄るべくして寄って来ていたのです。「隙あれば、魔あり」は確かですが、「悪魔視あれば魔あり」が真実に近いのです。何故ならば、悪魔視は、悪魔の指導だからです。既に悪魔は傍にいて、最初から悪魔の指導を受けているのです。さらに真実をいうならば、悪魔視は、悪魔視している本人を悪魔にします。悪魔視する人の心が悪魔になっているからこそ、悪魔が呼び寄せられてくるのです。そして悪魔視は人を悪魔化するのです。
ですから、教団内では、愛や思いやりとは逆のものを感じることが多いはずです。たとえばK会では、説法の機会は万人に平等に与えられているのではなく、まずお金が先にたって、お金がないことに悩む機会になっているはずです。「法話や研修を受けたくても受けられないのです。何故なら、お金が無いからです。」というようになっていないでしょうか。

余談ですが、信者の純真な心を思い出すと涙が出る思いです。
「家族の為、子供の為に悪霊撃退祈願を受けたいけれど、母子家庭でお布施のお金が無くて受けられないのです。」
という方や
「家族みんなで大黒天祈願を受けたいけれどお布施のお金が無いから受けられないのです。」
という信者が、他の方が受ける際に傍らで参加して、自分たちの名前は呼んで頂けないけれど、必死で像に手を合わせて、家族の為に祈っていた姿を今でも思い出します。本当に純粋な心です。家族への愛です。教祖は、こういった信者の心を本当に感じとれた事があるのでしょうか。母子家庭で貧しい方ができる限りのお布施をして、世界が幸福になることを祈っている姿を見たことがあるでしょうか。多いに疑問です。 

教祖は自分の像や写真を通して自分に祈らせています。それで教祖が信者の切実な祈りを認識出来ていないのならば、その生き神信仰は誤りになります。悪魔視をする教団の教祖は、信者の思いを認識できていないと思います。
もし認識できているのならば、純粋な心ある信者に他人を悪魔と見るような教えを説きはしないでしょう。幼稚園の先生や親が子供に、あの人は悪魔化していると教えるでしょうか。教える事はないでしょう。悪魔視を教えるのは、教祖の罪を正当化する為であり、信者を教団に縛り付ける為だと思います。悪魔視を理由に自分を正当化する方向へ信者を誘導しているのです。

K会の祈願で見たもの

私もその祈願の時に参加していましたが、残念ですが導師を指導していたのは、悪魔でした。お金主義の祈願は、祈願自体が所詮は我欲なのです。悪霊撃退祈願というのは、そもそも人を悪魔視した結果、(祈願を)受ける要素が濃いものとなっているのです。だから、悪魔が寄ってくるのです。
祈願を受けた方の中には、急に頭痛がしてきて、夜に幻覚が見えて来たと、私に連絡が有りました。魔の憑依です。しばらく、私と話していると気も晴れてきたのか、治った様子でした。それ以降、その方は悪霊撃退祈願や他の祈願を受けるのは一切止めました。やがて、その方は、脱会しました。

更に、支部で悪霊撃退祈願の際、何体もの悪魔が揃って導師側の席に居たのを見たことがあります。最初は信じられませんでした。何回か見返してみましたが、やはり悪魔でした。私は不思議に思いました。邪魔をしに来ているのかとも思いましたが、悪魔は非情におとなしく整列していました。その時は、邪魔しに来た所で手も足も出ないのだと安心していましたが、今思えば、悪魔が指導していたのだとわかります。
洗脳による信仰は、盲目に等しい。悪魔視もまた盲目の中で行われているのです。

自分に対して発せられた言動だけを見て、相手の苦悩を見ようともせずに、相手を悪魔にして自己の責任を逃れようとする傾向が身についたなら、今すぐに直していかないと中々取り去れないかもしれません。悪魔視をする方が楽なのですから。
実りある人生を歩む上では、人を悪魔視することは、あらゆる面で損な選択だと思います。世間は教団内部とは逆で、悪魔視を行うから、世間から迫害を受けるのです。悪魔視を続けていけば、没落していくと思います。自分が悪魔化してゆくからです。今すぐに止める努力をしていきましょう。(X
(次回に続く)