2015年9月30日水曜日

(投稿)恐怖心は、克服できる④ -脱会者からのメッセージ―

 

(前回から続く)

9.魔の術中にはまる教義

KK教義自体に自我我欲が内包されている

KK教義の縁起の理法には、潜在我欲が内包されています。

一つ例を挙げれば、「KK会員になれば、黄金の文字で入会日が刻印され、天国が保証される」故に、伝道して魂の救済をしなければならないという教えがあります。会員になっただけで天国が保証されるというのは、縁起の理法に反しています。この教えが暴走すれば、「本人の知らない内に勝手に会員にしても天国が保証され本人の魂の救済が可能」という事になります。とても公式的です。

この教えが行為に現れると実際に、ある支部では本人が全く知らないのに会員にされている方が多数いると、支部長に聞いたことがあります。前支部長は、かなり評価があったとも聞いていましたが、このような暴挙をしていたようです。この行為は自分の為の欲です。又、映画鑑賞会等を開いて、プレゼントを渡すからといって、氏名、生年月日、住所等を記載してもらった後、勝手に会員登録したとも聞いています。心ある信者は、「こんなことして会員にしていいのですか? 騙しているではないですか!」と非常に心苦しい思いをしたと言っていました。

ほとんどの会員はそれでも平気だったそうです。これは、KKの縁起の理法にかなり欠陥があるのです。人間ORを生きた神にしていますから何でもOKになるのです。KKは、至高神の位置づけで、地球の最高権限を有していますからORに評価されればOKなのです。逆にみれば、評価が欲しいから、このような暴挙に至るのです。

つまり、こういうことを平気でする方は、本当には「縁起の理法」(善因善果・悪因悪果)を信じていないのだと思います。成果主義でKKが評価するのをずる賢く逆に利用しているのです。KKの法で自我我欲を引き出されると、この世の常識さえ逸脱して、基本的な人間性までも腐らせてしまうようです。

至高神が最高権限を有し、ORが宇宙神で法身ならば、大宇宙の法則も自由自在なのです。法そのもののORが言う事は、宇宙の法則であり真理なのです。ばかげた話しです。

ですから、ORが自我我欲を持って説いた法も真理になります。自我我欲で説かれた法は、自我我欲を信者に植え付けます。その結果が上記のような暴挙に出てしまうのです。他に、伝道、植福等菩薩制度、導入するだけで護られる御本尊、世界を守る像、立派な建物等、全て潜在我欲の産物です。ですから、立派な建屋を建立し、像を設置しても魔が平気で徘徊できるのです。ですから、脱会後は、KKの物を全て廃棄する必要があります。(研究のために欲しいという方もいるようなので、念のために種村氏に相談されることを勧めます)

②潜在我欲を誘発した活動は、愛の想いを消していく

KK初期においては、純粋に伝道していたと思いますが、途中で全く異質な数値主義に変貌していったと思います。「菩薩を目指す」という想いにも、当初は純粋さがあったと思います。菩薩とは「菩薩のような愛」です。

しかし、「○○菩薩」という「制度」が途中で出来ました。これに実績評価が加わって、無理に伝道、植福等をした方もおられるでしょう。退職金をつぎ込んだ方は、「植福菩薩を選択する」と言っていました。心ある信者は引き留めましたが、KK側に折伏されてお布施したようです。

菩薩とは、何かを布施するから菩薩ではないのです。誤った教義の環境に侵され、本来の姿を忘れ去り、我欲に走ったツケは大きいと思います。気がついて脱会した後、どれだけ苦しむことでしょうか。KKの罪の重さをそこにみます。

教義上では、「与える愛」、「愛の発展段階説」、「波長同通の法則」や「反省の法」等に誤りがあります。KKの法は公式のように理論的です。一見、理路整然にみえますが、深くなんともいえない。悟りの内からにじみ出る覚者の教えではありません。右がダメなら左、右左が解れば真ん中というような教えは誤っているのです。

教えを実績主義に結びつければ、目標ができます。目標達成が活動の目的になっていきます。そこに愛の発展はありません。あるのは過酷な活動が待っているだけです。ある人からお布施を抜けば用はなくなり、次の人へそのまた次の人…というように集金が中心になり、大きなお布施をしたものは大評価を受けます。本来の姿を見失った姿、「欲また欲の暴流」で、そこに愛は消えています。あるのは、裁きです。これで、魔の餌食にならない方がおかしいのです。

10.誰でもできる簡単なことで、恐怖心は克服できる

①自分の中の神の心(仏性)は信じるより、愛する事が大切

私の経験上のことですが、恐怖心は、あっという間に大部分が克服出来ます。もちろん、KKの誤りを一つ一つ確認して、洗脳を解いていくことが重要です。それには、ある程度の期間がかかります。霊的な方は、その期間の間に危険な時が往々にしてあったりもします。

私がそうでした。私は、もうこれで終わりだと想った時に、内なる声が響いてきたのです。その通りに実践した時から、氷りついた心に温かい心が蘇り、恐怖心が和らいでいったのです。

それは、「自分の中の神の心を愛する」こと、「自分の中の神の心に感謝する」ことなのです。これは、万人が誰でもできることだと思います。

KK信者ならば、自分の中に仏性があると信じているはずです。「仏性」という言葉を使うとKK教義を引きずる可能性がありますから、「内なる神の心」で良いと思います。KK教義では、仏性を信じよと説いていますが、目に見えない仏性を信じようとしても、本当には信じられないのです。この辺が、実践できないKK教義の限界を感じます。

目には見えない「内なる神の心」は愛していく中で、実感できていくものだと思います。自分の心の内に想いを向けて、純粋に愛するのです。そうすれば、温かいものが流れ込んだり、湧上ってきたりする感覚を覚えます。

②対人不信や対人恐怖が克服されていく

 自分の中の神の心を愛していく中で、他の人の中にも同じように神の心が宿っているという事が、実感できてきます。今まで他人に酷い事をしてきた自分があり、他人から酷い事をされてきた自分がいます。内なる神の心を愛して、思い起こして反省すれば、自他共に辛く厳しい人生の修行をしている事をなんとなく感じてきます。

他人にされた酷い事が心にくっついて、
「憎んだ自分、それを言い訳にしてきた自分、他人を許せない自分、裁いた自分など」
が想い起こされます。

自分がしてきた事は、果して正しかったのだろうか。

「仏の名の下に強引で高慢な姿勢で人を傷つけたり、愛の無い裁きを降したり、調和を乱したり、仏の加護を信じた故に不幸に陥ったりしたのではないだろうか。他人にも今自分が受けているような苦悩を与えて来たのではないだろうか。」
というような事も冷静に観られるようになってきます。そうして、他人の中の神の心を愛するようになって行きます。

すると、対人不信や対人恐怖が薄れ、消えていくのです。

現在、私はある営業職についていますが、常時人と関わる仕事です。これは脱会直後の自分では考えられないことなのです。

③魔の影響を受けなくなった

 「自分の中の神の心に感謝して、愛する」、「他人の中の神の心に感謝して、愛する」ことを実践していく中で、徐々に魔の影響がなくなっていきました。比較的、早かったように思います。

これは、KKとの霊的な道が切れていったのだと思います。苦しいそして苦しい日々なら、道はついたままだったでしょう。しかし、自発的な「感謝」と「愛」の想いが、魔の道を切って行ったと思います。

又、天上界の加護が働いていると思います。苦しみよりも「内なる神」へと本心で向いた心は、天に通じます。私は、天上界の加護をかなり感じてきました。KK教義の「波長同通の法則」に洗脳されていると、自分の想いが自分の心の力で、天上界に直接つながるとは思えないのです。

KKだけが高級霊とつながるというような「波長同通の法則」は、間違っています。人は、みな神の子です。神の子ならば、その想い一途で純粋ならば、天の神につながるのです。魔といえども神には勝てません。神は、魔をも生かしめておられる慈悲の存在ですから。

私は、魔の影響を受けなくなったことが、恐怖心が消えていった大きな要因です。

魔に打ち勝っていくのは、純粋な愛の想いです。KKに毒された我欲の愛では、魔の標的になり、利用されます。「許す愛」と言っても許せない自分がありました。何故か。愛さないから許せないのです。

「許す」というのは、愛することで自分をも許される(許す)ことだと想います「許す」とは、愛する想いに現れてくる現象なのです。つまり、愛する愛が大切で、愛するとは、「与える」ではなく愛するのです許しは愛する想い(感謝や行為等)の中で自然に出てくる想い(感謝や行為等)であって、「与えよう」とする目的をもった自覚ではないのです。

誤った「与える愛」の思いを利用すれば、犠牲を伴うような無理な献本、購入、お布施、暴挙伝道など全て「与える愛」の素晴らしい行為になります。「与える愛」の自覚無く、見返りを求めない純粋な愛の想いなら、愛する想いの結果として「与えて下さった」という本当の感謝の想いが相手に湧いてくるでしょう。

やはり、潜在我欲が内在している「与える愛」の思いと行為は、魔に通じるものがあるといえます。だから、「迫害」を受けるのです。

KKが教義も心も行いも正しければ、「迫害」ではなく世に認められ、選挙も当選していたかもしれません。根本の愛する想いに誤った段階を付けて、愛に数値目標を設定した(例えば「〇〇菩薩を目指す」)罪は重いのです。

最後になりますが、私が脱会後も様々な苦悩の渦中にあった事は事実です。今苦悩の渦中にある方のお気持ちは良く理解できます。本当に苦しいと思います。私はその中でどうしようもなかったのですが、種村氏の力添えもあって、洗脳解除していく中で自分に対して気がついたこと、教義の誤りに気がついて洗脳が解除されていったことや恐怖心、自己不信、対人不信、対人恐怖などが克服されていったことも事実です。私が出来た事は、他の方も必ず出来て克服できると信じています。

日々恐怖心等で苦しみ、特に自殺願望が出ている方々が、一刻も速く洗脳解除をされて苦悩や霊的悪影響がなくなりますように天に祈る想いです。どうか踏ん張り通して、頑張って頂きたいと、強く願っております。
以上


2015年9月29日火曜日

(投稿)恐怖心は、克服できる③ -脱会者からのメッセージ―

 

(前回から続く)

5.常軌を逸した無理な活動が自分に恐怖心を植え付ける

①常軌を逸した活動は、人生を犠牲にする

KKで活動していた頃、KK教義のいう不借身命という言葉の意味がよく解らない時が往々にしてありました。「不借身命」なのか「むちゃ」なのか。職場でも伝道をしていましたが、正に命がけでした。「不借身命」か「首(解雇)」か。私は人事部から呼び出しを受けて警告を受けました。社内で変な目で私を見る方も増えました。職場で伝道する時は恐怖心との戦いでした。恐怖心を押し殺して伝道していた自分を思い出します。こういう伝道は、博打的な伝道なのかもしれません。一歩間違うと解雇されることが判っているからです。

こうまでして伝道していたのですが、支部では目標数が足らないと裁かれます。教義ではプロセスが大切といいながら、支部は結果重視の行動でした。

1995年辺りは特に活動が激しく多くの信者がお金を吐き出されたと思います。私はリーダー的な役割をしていましたので、今ではその光景を見て涙が出てきたりもします。「貯金が無くなった」、「生活ができない」…非常に申し訳なかったと思っております。支部は見事目標を達成しましたが、その後に何が残ったのか。経済的な事だけでなく、心まで砂漠のように疲れ切っていました。みんな同じでした。疲れ切って全ての面で気力が無くなりました。大切な試験が会社であったのですが、私は「仏を取るか」、「試験を取るか」に迫られて活動を取り、試験を捨てざるを得ませんでした。

信仰心を利用して信者を利用しているのです。KKは人を尊重せず、人生を犠牲にしていきます。


②過度な心の負担が恐怖心を産む

私はその年のひど過ぎる活動が一段落した時に、KKに深刻な疑問を覚えました。支部長も罪が重いと私は思います。「仏は運営に携わってなく、弟子の修行の為に弟子に任せている」と言うのです。「組織の問題には仏は無関係である」という理屈です。むごい活動で信者が離れていくのを恐れた言葉だと思います。この辺が非常に巧妙で人間愛に欠けています。こんな言葉、心を持った人間なら聞かれて直ぐには出てこないと思います。支部関係者も同様で「自分の名誉と生活の為に信者を道具にした」のは事実です。

この常軌を逸した活動の後しばらくして、私はどこからともなく恐怖心が湧いてくるのを覚えました。何年か続いた過度に酷すぎた活動が原因です。心に急激な負担を掛け続けたせいです。

しかも、それ以降、「やはり支部活動はおかしい」という想いが消えず、活動方針を批評し意見を言ったことで、悪魔扱いにされて迫害され、余分に疲れた上、恐怖心も襲いました。人間、急激な心の負担を強いると後に恐怖心が起こって来るものだと思いました。ただ、この恐怖心には、霊的作用が多分にあります(後述します)。

7.日々の祈りで恐怖心を植え付け縛り付ける

 これは、脱会者が必ず気がつく点だと思います。特に「仏説・降魔経」です。日々声に出してお祈りする事で、自分の心に焼き付けていきます。心に焼き付けられたものは、中々消えません。「降魔経」を上げても霊的にはプラスの効果がありません。逆に魔を呼び込んでしまいます。つまり、根本経典を日々唱えるということは、教祖や教団へ霊的な道を日々繋げているということなのです。その先に魔が待っています。

支部精舎の建立が決まり、建設される一年前くらいのことでした。信者は御本尊の写真をありがたくみていますが、脱会に近づいて来ていた時(その時はまだ脱会の意志は無かった)、何故か中の教祖の写真がサタンの顔に変化してすごい魔の波動が来たのを見て、ゾクッとしたのを覚えています。その時は、何故そうなったのかは解りませんでしたが、今考えると納得します。支部の撃退祈願を受けても魔の波動しかこないので、私は、「何かがおかしい。支部自体が魔に支配されて来たのではないのか」と思い一旦支部から離れました。

8.どこからともなく恐怖心がやってくるのは悪魔の所業

①天上界に見離されたKKと私の勘違い

 KKが天上界から完全に見捨てられたと思われる時期に、KK関連の建屋には魔が自由に徘徊している姿が見えました。支部に行くと魔の波動がしてきます。あちこち痛くなったりもしました。私は、これは天上界が離れているのかもしれないと思いました。支部でも家庭のご本尊で祈っても光が降りてこないのです。

ただ、光が降りてくる時もありましたが、ここが勘違いしてはいけない所です。私はここを勘違いして、天上界がまだKKの再起を期待しているものと思ったのです。現実的な判断が欠けていたと思います。霊的な方は、勘違いしないようにして欲しいのです。

天上界は、KKから会員を護って解放しようとしているのだと、脱会が近くなってくると思うようになりました。自宅でお祈りしている時も光が降りてきていましたが、今考えると天上界が魔から私を護って下さっていたのだと確信しています。私はそれを勘違いしていたのです。

その後、種村氏が破門されたと張り紙が貼られて、さらし者にされていました。「魔が入っている」と言っていました。右腕を外に追いやり、誹謗中傷の果てにそぎ落とした教祖は、これでもう終わりだと、KK再興やKK救いの道は断たれたのだと判断しました。教祖も根本神では決してないことは判っていましたが、一時の迷いかもしれないとも思っていたのですが、これで、教祖への信頼は全く無くなりました。それで私は、脱会を真剣に考えるようになり、直ぐに脱会しました。KKには欠片の可能性さえ残されていないということです。私の関係者は、全員脱会して頂きました。
 
②脱会後に襲う恐怖心は霊的磁場の後遺症もある

 私は脱会後に、どこからともなく起こる恐怖心にかなり悩みました。マイナスの想いが被(かぶ)さると恐怖心は増幅されます。この恐怖心は本人を「何もできない人間」にしていく怖いものです。私は、就職活動でさえ自己不信になり、この恐怖心で力が出せなくなりました。「このままでは、社会に出られない」という思いが続きました。これは非常な苦痛なのです。

多くのKK信者はお金を吐き出してきていると思いますので、経済的にかなり追い込まれている方も多いと思います。恐怖心と経済的苦痛が非常な苦痛に追い込み、これが自殺願望を起こさせていきます。この恐怖心はKK活動や教義の実践と社会との関りなどで植え込まれてきたものでした。混沌としていて最初は原因がつかめず、かなり苦しい想いをしました。

今だからこそ、これまでを振り返って私なりに書いていますが、脱会後は本当に解らなかったのです。ただ、大きな要因に霊的な作用が大きい事は解っていました。KKに属して支部に通って祈りや祈願等の行事を頻繁に行なっていると大体の方はある程度、霊的になっていると思われます。それだけ支部等は霊的磁場(その正体は悪霊波動)になっています。強い低級な霊的影響を常に受けています。

特に祈願は、自分を無にして全霊で受け止めますから、かなり影響があります。撃退祈願は特に危険な場合があります。希に本人の心が我欲から離れ正しければ、その心において成就する事はあります。しかし、大体は、偽仏に全託している心に悪霊が入り込もうとし、憑依してきます。撃退祈願を受けて悪夢を見たり、頭や肩が痛くなったり、体調が悪くなったり、変な臭い(霊臭)がしてきたりした方もおられると思います。それだけ霊的な道がついているのです。又、本人も霊的になっているのです。日頃、霊感の無い者でも突然霊臭がしてきたと言っていた方もいました。

③脱会後に起こる恐怖心には、霊的影響が大きかった

 私は、この恐怖心の原因には、魔との道が繋がっている事を認識していました。会社で働いている時も霊的な邪魔がかなり入っていました。KK祈願を受けても改善はしません。

KK以前には無かったのですが、KK以降、「迫害」というものが付きまとうようになりました。勿論、自己責任ではありますし、自分の至らない点もあります。それは承知しています。

しかし、実は魔の妨害もかなりあるのです。魔の妨害があるということは、何故か没落していくということなのです。魔は真なる繁栄を望みません。邪悪な欲望、破壊や闘争、破滅が好きです。恐怖や裁き、不信、不幸が好きです。魔は魔界に引きずり込みます。KKと霊的な道が繋がっていると、どこからともなく恐怖心が湧いてきます。ですから、種村氏が当ブログで言われているようにまず脱会する事が大切ですし、KKの物を全て廃棄する事が大切です。

脱会後、霊的な方は、KKの霊的な後遺症までも引きずり、恐怖心が付きまとう方もおられます。魔の幻聴で何年も苦しんできた方もいます。大体ですが、特に心臓部が苦しくなってくるようです。私の場合は、久々にやる気を出したりした時に、突然に心臓部が恐怖を伴って苦しくなり、元の状態に引き戻されたりしました。体調も悪くなります。教祖の声が響いてきた事もありました。本当に聞こえるのです。脱会しても心が少しでもKKに繋がってしまうと、霊的道も繋がってしまいます。脱会後は、洗脳を解除して、心が完全に離れる事が大切です。

特に大切なのは、今湧いている心が全て自分の心かどうかを見極めることです。例えば、そんなには恐怖心が湧いていなかったのに、徐々に大きくなって胸が苦しくてどうしようもなくなるような時は、増幅させられている場合もあります。

そういう時は、「これは全て自分の想いではない」と自覚する事が大切です。全て自分の心だと想ってしまうと、自分がおかしくなったのではないかと想い込んでしまいます。そうなれば、魔の術中にはまります。

これは非常に危険で悪い方向へ誘導されてしまいます。絶対に負けてはいけないのです。そうなる前におかしいと感じたら家に閉じこもらないで体を動かしたり、散歩したり、神社に参拝したりして気分転換をすることが大切です。

2015年9月27日日曜日

(投稿)恐怖心は、克服できる② -脱会者からのメッセージ― 



(前回からの続き)

4.KKはこの世の成果で成功を図り、信者に自己犠牲を強い、
  現実の渦中で強い恐怖心を植え付けていく

KKの繁栄の為に犠牲になった信者

KKは発展繁栄の教えを説いています。人生成功の捉え方において、この世で成果を上げなければ成功者ではないという想いを強く持たせます。確かに成功しないよりされた方が良いと思います。経済的な苦痛は本当に苦しいと思います。「仏の法を学ぶKK信者は発展繁栄して世の中の指導的立場に立って欲しい」という言葉もありがたく聞こえます。KKは色々な所から引用しているようなので、良い教えもあります。

しかし、KKに所属し活動した人生は悲惨なものになっていきます。例えば、教義では、「他人を幸福にすることは、自分が幸福になる道」と説いていますが、良くなっていった(経済繁栄した)のはKKの方で、信者は地獄を見たわけです。その結果、徐々にKK自体も衰退しているのではないでしょうか。

KKは信者によって教団運営や職員の生活が生かされているわけです。その信者から金銭を搾取し続けて、尚且つ信者の血に染まった大切なお金で贅沢し無駄遣いして、一番幸福にしていかなければならない信者を道具のように扱って不幸に落として、教団が維持できるはずがないのです。KKは一時的に発展繁栄を成したでしょうが、その繁栄は信者を犠牲にして実現したものです。これは、完全にKKの法にも反します。真理に反していてもこの世では一時的に繁栄します。

KKの活動自体が愛の体現といいながら、実績評価になっていきました。何の為か? KKの勢力拡大と収入(お布施)を増やす為でしょう。教祖がこの世的な力を手に入れる為でしょう。その為には手段を選ばず信者の人生や生活のことを微塵も気にしないやり方は、異常性をもった組織と言えましょう。

②信仰心において自己犠牲を産みやすい教え

「他人を幸福にすることは自分が幸福になる道(成功する道)」というのは、一歩誤ると自己犠牲を生み出します。ただこうも言っています。「自分の成功が他人の幸福に繋がるようなものでなければ真の成功とはいえない」と。つまり「自分の成功」は「他人を幸福にすること」となります。確かに、これは正しいと思います。悪い事をしてまで繁栄することは心あるKK信者なら誰も望まないでしょう。KK信者の多くは元々善良な気質があり、心の優しい方が多いのです。ですから、他人の幸福の為に自己犠牲を選択しがちになるのです。

色々な職場を経験しましたが、現代は自分のことしか考えない方が多くなったように思えます。私もお人よしなところを利用されてきたように思います。「仏は全てお見通しで、必ず正しい者を繁栄させて下さる」という信仰の想いがKK信者は強いわけですから、信者は「自他共に幸福になる道」として何もかも当てはめて他人の為に良くあれと願い行動してきたのです。ですから世界の平和の為に家庭生活を破壊していくような無理なお布施もしてきたのです。

しかし、肝心な教祖様がどうしようもなく凡人と化していたとは、中々気づかなかったのです。お金がどんどん入って喜んでいたのが教祖たちだと思います。その裏で信者は苦しみぬいた。これで日本や世界が救われる、教祖様が国連総会で弁論されることも心から願ってきました。だが、結果は教団が大きくなっただけで、教祖様は高価なものを身にまとい、信者は貧しくなり、信者の期待を一心に背負った選挙には落選したのです。

③仏への他力依存だけでは、自分は救えない

又、上記のような抽象的で単純な成功法則では、生き抜けない時代にもなっています。私も体験しましたが、愛の思いで信じて騙されたりしました。騙すほうは本当に手馴れていて上手なものです。平気で人の人生を自分の為に利用して用がなくなれば追い出すような経営者もいます。その経営者には常に悪霊が憑依しています。それでも三次元では今も会社が存続しています。成果で成功を図るなら、これは成功になります。

しかし、これは「人生の成功」ではありません。そういう悪からは「加護され正しいものが発展していく」と信じていても、全く逆の事ばかり起こってしまいました。「他人を幸福にする」中で、明らかに自己犠牲になってしまう状況があり不安でした。本来なら自己犠牲にならないで「自他共に発展していく」という道を取るべきなのに、「仏が必ず繁栄させて下さる」という信仰心で、その努力を消してしまいがちになります。「幸福は仏が下さる」という他力信仰に陥っていくのです。

自己犠牲が予測されると強い不安や恐怖心が湧いてきます。本来ならば、現実面に即して対処して自分が犠牲にならないようにしなければいけないのですが、信仰心が邪魔をして本来の判断を狂わしてしまうのです。信者は、仏という他力に依存する傾向が強くなっているのです。ですから、自分自身を自分の力で護らなければならない状況でも「仏が護って下さる」とか「○○祈願」になってしまうのです。そうすると祈願代とかに、またまたお金がかかります。

しかし、仏を信じていくら祈願を受けたり、教えを実践していても、例えば会社で悪者にされたり、悪い立場に追い込まれたり、親しいものに騙されたりとたいへんな不幸が襲ってきます。これは、初期の頃の修行論が消えているからです。もはやお金集めの修行論になっていますから、初期の教えと現実の行動が合致しないのです。

④仏の加護の元で不幸が続くと、強い恐怖心が植え込まれる

 このように自己犠牲的な不幸が続いていくと、徐々に敗北感が芽生え、また同じような事が起こるのではないかという恐怖心が湧きあがって来ます。そういう時は、心の中で必死に仏に祈ったり、守護霊にお願いしたりしますが現実には何の効果もないのです。そして自分の心が混沌とした不安や恐怖に悩まされるようになります。仏を信仰しても「救われない自分」を感じます

しかし、信者は、「これには深い意味がある。全て仏にお任せする。」というような思いを持って頑張ろうとしますが、結果は変わりません。これは怖いことなのです。信者は毎日、根本経典を唱え、支部で拝礼し信仰を深めていますが、生き神である教祖様への信仰を日々持ち続けても尚、不幸が押し寄せてくるのです。当人は「何故、護られない」、「救われない」とか「カルマがきつい」、「仏の試練」とか様々な思いが出てきます。これは、強い不安や恐怖心を、KK教義や信仰上で常に考えているのですが、そうしている内に恐怖心や対人不信に支配され抜け切れなくなっていきます。

KKは悪をなす人を悪魔視するから、現状を魔の攻撃と判断して、祈願を受けたりします。これは本当の反省ができていないのです。だから、現状が打開されないのです。

やはり、他力に依存せずた自己変革を決意して現実面をしっかりみすえて自力で頑張らないと現状は打開されません。私の場合は、以前よりかなり弱くなっている自分が在りました。他力に依存するからです。

(他力を否定しているのではないのです。他力は必要だと思っています。依存が問題だと思っています。自分を弱くずるくするからです。)

注)KK教義の反省手法では、本当の反省はできません。経験済です。

⑤人生の成功とは、成果だけではない

しかし、これは人生の敗北ではありません。人生の成功や敗北はこの世の成功や敗北で決まらないと私は思います。KK初期においては悟りが最優先で求められていました。人生の成功は、カルマを解消して悟りを得て魂の向上をはかって天上界に返るという修行論が優先されていたのです。

しかし、この世の成果を人生の成功とする教祖の傾向が、途中から強く教えにも現れたのだと思います。「心の向上」こそが人生の成功で、その過程において他人を幸福にし、自分も繁栄していくのが本道だと思います。根本の「心の向上」の努力を抜きにして、他力信仰だけでこの世の繁栄を望み「他人を幸福にする」を道を選択しても自己犠牲になっていきがちなるではないでしょうか。あくまでも、主体は自分であり、仏ではない。自力で悟りの向上を努力するから他力があると思います(初期はこの教えだった)。

言うべき所は言い、認める所は認め、引く所は引き、判断する所は自分の頭で判断し、成すべき事を自力主体でしていく事が大切だと思います。(続く)

2015年9月24日木曜日

(投稿)恐怖心は、克服できる① -脱会者からのメッセージ― 


(紹介)

Xさんが投稿をくださいました。力作です。Xさんの努力とこの投稿を書いてくださった利他の思いに敬意を払います。4回に分けて掲載しますので、ご覧ください。

(投稿)

私は脱会して間のない頃は、洗脳された心と破壊された様々な環境の中で苦しみぬいて、自殺願望に飲み込まれそうな日々でした。心から出てくるのは、「生きていても仕方が無い。守護霊よ、早く命を引き取って下さい」という思いばかりでした。神社に行ってまで、「神様、早く命を引き取って下さい」と真剣にお願いしていました。

自殺願望を克服できない要因に恐怖心がありました。「このままではいけない。希望を見出して頑張ろう」という思いが浮かんでもいざ行動に移そうとすると、恐怖心が希望をかき消してしまうのです

恐怖心が出てくると、自己不信、他人不信、不可能、無理、焦燥感、あきらめ、精神病、悲しみ、後悔などマイナスの想いが次々と出てきて「自分はもうダメだ」と絶望していきます。いつ死のうか、どうやって死のうかなど、死の実現を望むようになります。これは今、何度思い返しても自殺願望です。

 しかし、自殺願望を抱かせるほどの恐怖心は、私は意外に早くに克服できました。脱会後に起こる強い恐怖心には原因がありますが、原因をいちいち解決していかなくても、朝露の如く消えていきました。KKに植え込まれた恐怖心は、理由なく湧き上がって来て、我に返った時も現実社会で生きる事への恐怖心として起こってきますが、これは幻のようなものでした。

今回は、過去をある程度振り返りながら、私がKKに植え込まれた恐怖心から解放されたことを教義上の間違いをKKの行為の面からも眺めながら記したいと思います。 (Xより)
                       
1.没落し自殺願望が芽を出す

KKは豊かな心を奪い社会生活を破壊する

 私はKKに関わる以前にはあまり恐怖心で苦しむ事は無かったと思います。ですがKK脱会後は、特に恐怖心が襲ってきました。いくら恐怖心を自己流で克服しようとしても長年の活動の中で植え込んだ垢が落ちずに、悲しいのですが、心が言う事をきかなかったです。

私は不幸に見舞われ続けて、ようやくKKの過ちに気づいて脱会した人間です。KKで活動すればする程、教祖を信じる程、人から裏切られたり陥れられたりしながら迫害されていったのです。現実的には自分の生活環境が崩壊し、精神的には洗脳された心で苦しみました。

仲間の会員にも、私と同様に職場を追われた方がいました。正に、心身共に「没落」という言葉が当てはまります。KKでいくら経済繁栄系、成功系の祈願をしても、没落は止められません。没落していく中で、豊かな心で生きて行けるはずがありません。長年勤務した会社の定年を迎えずに辞めて退職金をつぎ込んだ方がいますが、離婚問題に発展していました。それで豊かな心になれるでしょうか。本当に幸せでしょうか。大いに疑問です。

②何が何でも自殺を踏み止まること

私は経済も破壊されていましたので、生きる希望は全くありませんでした。自己信頼も全く無くなっていました。又、どこからともなく恐怖が湧上り、これが日々繰り返されていきました。そうしている間に、徐々に自殺願望が芽を出してきました。精神も生活も限界が近づき、心が耐え切れなくなるのです。

「生きていても仕方が無い」という思いは、「生きていく意味が無い」、「生きていく自信がない」という思いでした。

もし心が健康ならば、「よし!もう一度ゼロから頑張ってやり直そう」となるでしょう。しかし、疲れ果てた心に恐怖心が湧き上がってきますから、マイナスの事ばかり思いが巡ってくるのです。

厳しい現実に直面して苦悩しますが、大切なのは、自殺に絶対に走らないことです。踏み止まることです。私が危険な所まで行きながらも自殺に走らなかったのは、自殺をすれば地獄に落ちるかもしれないという想いがあったからです。KK教義に関係なく、自殺は神から頂いた命の放棄、人生の放棄だから良い 事ではないという想いがあったからなのです。これはKKに関係なく、ボロボロというしかない自分でも唯一、神への信仰心があったから助かったと思います。最後のひと絞りの信仰心は、KKを捨て去ったゆえに持ち得た、見えない神への信仰でした。

2.人間不信、対人恐怖を信者に植え付ける

①サタン視の裏には、嫉妬心や恐怖心もある

 御承知のように当ブログを主催する種村氏は、KKでは「魔に入られた存在」ということになっています。私は脱会後しばらくして、種村氏にお会いして様々なご指導を頂きました。たいへん優れた優しい方で、魔とは無縁のお方です。お会いすれば、直ぐに解ることです。

しかし、KK教団は、信者が会った事もない種村氏を悪魔と信じ込ませ、よってたかって迫害します。書籍まで出版して誹謗中傷します。これは、人間のすることではありません。そこには教義でいう「与える愛」の欠片(かけら)もありません。

KKの信者時代に、私は教祖の方針に意見を言った事で、チームや支部でサタン扱いにされ、村八分になったことがあります。かなりショックを受けました。信者たちの私を見る目は「疑いの目」になり、そこには今まで労苦を共にしてきた信頼というものは無くなっていました。KK内においては、「魔に入られている」という嘘の言葉一つで一瞬にして、何年間もの信頼は消え、迫害されるのです
それでも心ある信者が言ってきて下さったのは、私に対する「嫉妬心」が代表地区長に見えたということでした。だから今まで信頼して労苦や喜びを分かち合ってきた人たちが、私の発言の真意を私に確認もしないで、勝手に「悪魔に入られた」と決め付けて、かばいもしなかったということでした。

勝手に想像してお許し頂きたいのですが、種村氏の場合は、完全に教祖の嫉妬心と恐怖心だと私は今でも思っています。自分を越える存在に嫉妬し恐怖して、正体を見破られる恐怖心は、一般社会でも見てきました。確かに人間心でみれば、自分を見通されると思えば怖いでしょう。

②迫害は、脱会せよという神からのメッセージ

 今になってみれば、私は結果的には良かったと思っています。あの時、勇気を出して組織の問題を指摘したことも正しかったと確信しております。

少しソレますが、私が指摘しだした頃に、魔が襲ってきて憑依されて非常に肉体的に苦しんだ事も思い出します。KKで正しい事を指摘すれば、魔の標的になり、どこからともなく恐怖心や不幸も起こってきます。KKが魔に支配されている事がよく解ります。ですから、一刻も速く脱会することが肝心なのです。そして、KKの祈願は絶対に受けないようにするべきです。

その時が脱会するタイミングだったと今は思います。少し後悔ですか、「何故、あの時もっと冷静に判断して脱会しなかったのか」という思いがしばらくの間続きました。そうすれば、もっと状況は違っていたと思います。冷静に判断すれば、真の救世団体が人をサタン視するはずがないのですから。それは、この教団が誤った教えと行動をしている証拠だったのです。

③極度の迫害や集団イジメで恐怖心を植え付ける

KKにおいて対人で酷(ひど)い目に遭われた方は、私のように対人恐怖や対人不信の念を植え付けられている方もおられると思います。特に迫害されたり、昨日の友人が自分を敵視しだしたり、大勢で迫害し、他の支部まで及んで疑いの目やキツイ言葉を浴びせられたり、危険な病人のように多数信者から扱われますから、それはショックを通りこしてしまうのです。

これは言葉を変えれば、集団イジメです。集団パワハラです。集団イジメは恐怖心を強く埋め込み、自殺者も生みます。根本教義、四正道の根本「与える愛」はなく、愛の発展段階説「善人の愛」、「生かす愛」、「許す愛」は全く無く、「本能の愛」に吸い付く「サタンの心」で生きているのです。

3.生き神を信じ他人に恐怖心を植え付ける

 ①教祖の言動は信者にコピーされる

 KKの代表的な特徴に裁き心があります。教祖や職員は、自分のいうことを聞かない人を裁きます。選挙で○○実現党に投票しない民を海に沈めると脅します。自分の利益にそぐわない信者を裁いて迫害します。

貧乏な者を寄せ付けません。悩んでいる信者を自己責任で突き放し、あなたに原因があるといって裁きます。会員にならない人を「未だにこの法が解らない低次元霊」と決めつけ裁きます。

高慢というより傲慢です。私は会員時代に、社会でも自分は特別な存在だと思い込み、会社でも教祖の正義を押し通そうとして強引な言動をとったり、教義を無理に持ち込んだり、何かあれば裁いたりしてきました。その時は、自分では正しい事をしていると思っていますから、間違いに全く気がつかないのです。

何故なら、信じている教祖がそういう言動を取りますから。それを信者も真似て行なうのです。教祖がすることは信者も許される。要は、教祖の心が信者にコピーされているのです

②自我我欲から来る恐怖の予言者は、恐怖統治を産む

「教祖に従わない者は地獄行き」で、信者は「生神に仕え天国が保証されている特別な存在」という想いが、「一般の人々は救われる立場の人で可哀想な気の毒な方々」と見下しているのです。教祖を信じている不動の姿勢に加えて、そういう上目線の強い意志と態度で話されたら、日々接するおとなしい一般の方は怖いのではないでしょうか。私は仕事の指導上でも怖いと言われたことがあります。仕事上の事でも、洗脳されているので同じ傾向が出ていたと思います。一つは高慢、一つは裁き心です。

今考えれば、私は恐怖心を他人に植え込んでいたのだと思います。例えば、「あの人に誤った事を報告したら裁かれる」という恐怖心を相手に抱かせてしまうことです。指導は指導でも監視されているような感覚が相手にあったのではないかと今は思っています。

教祖の場合は、選挙に落選したくらいで、恐怖の予言をしてしまいます。それは裁き心です。根本は自分の言う事を聞かそうとする自我我欲です。そういう思いが知らないうちに信者に伝染していると思います。悪とは徹底して戦い正すというのは一見、正しく頼もしく思えますが、愛がなければ恐怖統治になってしまいます。この法のすり替えは、魔の狙いどころであり、魔の指導です。

KKに限らず別の組織でも、恐怖統治は必ず恐怖心を人に植え付けて行きます。私の職場も、所長による恐怖統治です。みんな怖がっています。結局、権限が有る者は人の人生を左右できるということです。生活基盤が破壊されるかもしれない恐怖に怯えているのです。逆に言えば、組織の長や幹部は、周囲からそうした酷い事をする人間に見られているということなのです。それでは選挙は当選しません。教祖が過去言っていたように、世間の目は誤魔化せないのです。

③愛か裁きか、仏の子かサタンか、両極端な自分になっていた

 私が思うには、両極端になってしまうのです。優し過ぎる自分がいると思えば、正義の元に厳しすぎる自分、裁き心を持った自分がいて、両極端です。これは、KKの教えが両極端になっているのが一つの理由だと思います。特に正義を全面に押し出して、強固な姿勢で教えや指示を強制しようとします。従わなければ裁きが降ります。サタンと見なされます。

教義的には地獄界をも優しく支えている至高神のはずですが、何故かKKの弊害になるような事物には、サタンと見なして裁いて倒そうとします。KKに仇すれば二度と人間として生まれないと教えています。こういう気質が信者に伝染し、職場でも形を変えて同じような裁き姿勢になっていたと私は思います。

裁き姿勢なる理由はこうです。教祖が至高神でかつ法が絶対の法と思い込んでいるので、自分を特別視しながらの救世の活動が、いつの間にかすり替わって、「思い通りにならない他人を仏敵と見なして悪魔視する」ようになるのです。そこには、愛が忘れられているのです。至高神のわりには、器が小さいですね。愛無きは悪魔視、愛無きは裁きです。

※教義の八正道、反省の法は間違っています。教義の正信、正見から入る客観視自体が誤っています。例えば、正信は教祖の想いがそのままコピーされる所から出発しますから正見が間違った見方になってしまいます。教義の反省は中止して下さい。また、KKの中道の教えも間違っています。実践がかなり困難な教えにもなっています。(次回へ続く)

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〒270-1154 千葉県我孫子市白山1-7-7 白山シャトー202
種 村 修
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2015年9月23日水曜日

(投稿)「呪縛」からの解放3 ―信仰を問う―


(前回から続く)

(投稿)

1.伝道活動に駆り立てたもの

自分はなぜ伝道活動を続けるに至ったのか。
確かに「恐怖心」によることもあったのだが、他にも「活動をさせんがための誘導」があった。これは、他の信者の方も共通して持っているものであると思う。
伝道活動の初期の頃、このように言われたことがある。

「今ここに集われている方々は、これから日本の中でリーダーとなって行く方々です。やがてK会の教えは広がって行き、やがて日本のあちこちの地域から、やがては世界の国々から教えを求めて多くの人々が集まってくるでしょう。その時に、人々を指導し導いて行く人たちが必要なのです。それがここに集った私たちなのです。今ここに集って少数の方々は、これから来るであろうユートピア社会を築き上げる土台ともなるべき人たちです。そして、必ずやユートピアを築かんとして、仏と約束して、仏と共に下生した存在なのです。」

それは、普通に生まれてきた一般の人々とは違う「特別な存在」なんだということを暗にほのめかしていた。そして、霊界階層説がK会の教えの中核であったから、「あなたたちは、比較的霊界の上の方から生まれたのだ」と。そこらの一般の人々とは違うんだ、ということを、信者たちは言葉には出さないにせよ、意識をしていたであろう。
実際に自分はそういう何とも言えない「特別意識」を持った。そして、それが活動をする中での、心の支えでもあった。そうでもなければ、誰が好き好んでこんな活動をするだろうか。この「特別意識」というものもまた、ORK会の呪詛でもあり鎖でもあったのであろう。

ただ自分は多くの矛盾を感じていた。
 K会の支部集っている人たちには、もちろん社会的に立派な地位にいる人もいたが、多くは「本当にこんな人たちが、将来日本のリーダーになる人たちなのだろうか?」と感じる人たちであった。職にもつかず、宗教に逃げているような人たちもいたし、職員でも、「こいつが?」と思ってしまう人もいた。私には、単なる烏合の衆に見えたのだ。そして、自分に対しても、心も奥では到底リーダーになれる器ではないということを感じていた。「この人たちはリーダーの器ではない。だから同じ場にいる自分もまた同様であろう。」と。そして、「特別意識」を意識すればするほど、それを否定するかのように「劣等感」も強く感じるようになっていった。結局は、そうした思いを「信仰心」という言葉で誤魔化し正当化した。

2.「信仰心」の作用

 「信仰心」という言葉は、K会にとっても信者にとっても便利な言葉であった。何でも「信仰心」といえば正当化されてしまう。活動でもなんでも、やっている意味について深く考えなくても、「信仰心」の一言で片付いてしまう。

「自分たちを動かしているのは『使命感』であり、『信仰心』である。ORも言っていたではないか。『われわれの存在は、使命そのものである』と。」

そして、信者は「信仰心」という言葉を安易に使いすぎたゆえに、「信仰心」について深く考えることもなく、ORから示された、自分たちにとって都合の良い「信仰心」を自らに植え付けることになってしまったのだ。

人間のみならず、神にも階層や順位をつけたがるのが、K会のそしてORの特徴だ。
そして、信者もその思想を受け入れ、そうした意識で世の中や人間を見る。
「自分たちは救う側であり、『特別な存在』だ。この世的にみれば、『ごくごく普通の存在』に感じられるが、霊的に見れば、私たちの方が上位の段階にいるのだ。伝道される側は『救われる側』であって、『特別な存在』であり『救う側』である私たちの救いの声を無視するのは、つまり伝道している私たちを無視するのは、あなた達が悪いのであり、この救世の教えを理解できないことに問題がある。私たちは『特別な存在』だから、こうした高度な教えを理解できるのだ。」
こうした屈折した思いが信者の心の奥底になかっただろうか。信者であった人は、こうした思いを意識的にせよ無意識的にせよ持っていなかったであろうか。

O R 氏は地球系霊団の主であり、いやそれ以上の存在である。この宇宙創生にも関わられた存在である。そうした偉大なる存在を信じ付き従っていくのが、私たちの『信仰』であり、生きる道である」

こういうことを、繰り返し言われてきたし、自分自身に対しても言い聞かせてきた。
 しかし、心から納得することはなかった。自分自身の心の奥では「真実」を知っていたからだ。当然、心の中では葛藤や反作用が生じ、その結果、心の中に歪みが生じる。私の場合は、強い「劣等感」が反作用として生じ、それを誤魔化すために「信仰心」で押さえつけた。そしてますます心を歪ませていった。
ゆえに、信者が深層的に持っていた「特別意識」というものは、信者の心の中に確実に毒を撒き、自分自身を見つめる「正見」の目を確実に曇らせてしまう

3.「信仰心」の中味を検証する

K会における「伝道」や「信仰心」は他の原始宗教、いわゆる仏教やキリスト教の時代のものと同等のものであると、いや、かつてキリストを指導された方であるから、それ以上のものであると言われてきた。かつて、その時代に身命を賭してきた方が生まれ変わり、今このような救世の時代に集っているのだ、と。講演会では、「命を布施せよ」とも言われたこともある。今必要としている「伝道」や「信仰心」は、その時代と同等かそれ以上であるということを言いたいのであろう。

しかし、K会でいう「信仰心」とは、キリスト教のそれと同等のものであろうか。
まず、「信仰心」に、対する動機からして、根本から違っている。
原始キリスト教の「信仰心」とは極めて純粋なものであった。キリスト教の教えに触れた人達は、一様に心が満たされ、幸福になった。イエスは、この教えを伝えよと言ったであろうが、「いついつまでに、どれくらい」というような強制を課したであったろうか。イエスの奇蹟や教えを見聞きし、それによってその人の内から自然に沸き上がってきた「信仰心」を大切にしたのではないだろうか。だからこそ、まさしく身命を賭した伝道ができたのであろうし、キリスト教という教えが2000年もの間続いているのではないだろうか。

 一方K会の「信仰心」はいかなるものであろうか。
 K会の「信仰心」とは、極めて不純なものである。K会の教えに触れ活動をしている人たちは、恐怖心を植え付けられ、不幸になっている。ORは、伝道にノルマを課し、「信仰心」を強要する。たいした奇跡も起こさず、自分たちの都合の良い「信仰心」を押し付け、恐怖の予言によって信者を見えない「鎖」で縛り付け、あげくの果ては、「植福」と称して、信者から金を巻き上げ続ける。まさしく、カルト宗教そのものであり、世界宗教になるどころか、選挙でも何の奇跡も起きず、衰退の一途をたどっている。
 キリスト教の「信仰心」とは似ても似つかないのは明らかだ。

 私は退会後、K会の、いわゆる「信仰心」たるものは、押し付けの「信仰心」であって、心の内から出てきたものではない、ということに気づいた。もしK会の「信仰心」がキリスト教のそれと同等のものであるならば、「信仰心」持てば持つほど劣等感や恐怖心が増大することはないだろう。事実、信者である方や、信者であった方の多くが、恐怖心に、よって苦しんでいる。
 K会への布施も「信仰心」の表れとして称賛される。本当に、「信仰心」の表れであろうか。K会信者は「救いたい」という表向きの動機の裏に「救われたい」という意識を深層的に持っている。「植福には、三輪清浄が必要」と謳っておきながら、実際はそうではない。例えば植福菩薩などのように、布施をしたら来世においてそれなりの報いが約束されるなどの「見返り」も暗にほのめかしている部分もある。
布施をするときは三輪清浄にあっているか、自らの心を省みなければならない。それが釈尊の説いた布施の原理であり、それがあるからこそ「布施」が修行として成り立っていたのだ。K会は、初期の頃は「三輪清浄」の話をしていたが、徐々に植福の金額目標を設定するようになり、「信仰心からの布施」と称して信者に植福を強要するようになった。「植福」としての価値は完全に失われ、ORやK会を利するための集金システムへと変わっていった。信者も、本来の「植福」の意味を深く考えず、それを「信仰心」の結果出た行為としてのみ受け止め、そこで思考停止をしてしまう。ここでも「信仰心」が便利なツールとして使われているのだ。
「救われたい」と深層的に思っている信者の方々は、「金さえ出せば救われる」と、やはり深層的に思っているに違いない。実際、私がそうであった。退会後、自らの心を振り返っていく中で、このような思いを深層的に持っていたということに気づいた。それは、本来仏教で言われていた「布施」や「植福」の本質とは全くかけ離れたものであった。悲しいかな、「信仰心」という言葉に惑わされ、せっせとお金を巻き上げられていただけだった。お金だけではなく、貴重な時間までも。

4.真の神からの問いかけ

 たとえ退会して、K会の縛りから解き放たれた後でも、「恐怖感」に苦しめられている方も多いと聞く。「良い」と思って受け入れ続けたものは、心の奥まで深く染み渡ってしまう。特に「信仰心」とは人間の思想の根源的なものであるので、これを「良きもの」して受け入れてしまうと、さらに奥深くまで入り込んでしまい、完全にぬぐい去るのはいっそう困難になる。
 K会から植え付けられた「恐怖心」から解放されるには、K会の「信仰心」とは全くの偽物であることを心から納得し、真実の「信仰心」を自らの手でつかみ取ることが大切であろう。

「恐怖」というものは、たとえて言えば、ある小さな物体が光を背にして映し出された「影」のようなものだ。小さな子猫でも、光を背にして映し出された影の大きさによっては、それが「トラ」に見えるかもしれない。実体を知らない人は、それは本物のトラだと思って恐怖しているにすぎないのだ。
 恐怖に取り憑かれると、その恐怖が限りなく大きく見える。そしてそれが、実体を持って自分を襲ってくるかのような気がして、さらに恐怖を拡大視する。しかし実体は、小さな子猫がじゃれている姿が影として大きく映し出されたものであるかもしれない。
 K会の「恐怖」とは、まさしくこのようなものであろう。ORは、自分に対する信仰を手放したら、無限の地獄で彷徨うことになるだろうと言った。しかし、実際は手放さないと幸福になれないし、つかみ続けていたら、それこそ彼と一緒に無限地獄に堕ちることになる。

 エドガーケイシーやヨハネの預言の霊言にいたっては、選挙で負けた腹いせと、責任転嫁が目的で「創作された」ものであり、この霊言(正確には霊言風造作書)に信憑性などなく、かなりの毒を含んだ「悪書」にすぎない。
K会の洗脳から解き放たれるには、映し出される「恐怖」の影にとらわれることなく、映し出される実体を見極めなければならないと思う。そう、私たちを苦しませ続けている「恐怖」とは、実体のない、根拠のないものであるということに「確信を得る」ことが大切であると思う。ORは救世主ではないということが明白になったのであるから、彼の袈裟衣から手を離すことが「幸福への道」である
 それでも、未だ手を離せないでいるものの原因となっている「恐怖」というものが、どこから来ているのか。それを探ってみてほしい。

私たちは、本来の「信仰心」を発揮できないように、誤った「信仰心」によって蓋をしてしまった。誤った信仰心を取り去るには、本来の内なる「信仰心」というものに気づくことが必要だ。
本来の信仰心とは、自らの内にあり、内から発せられるものだ。私たち一人一人の心の奥にあり、その人の持つ「信仰心」を発することによって、そのひとは一段と強くなり、幸福になっていく。私たちは、本来の「神」とつながっているのであり、それぞれの人の心の奥にある「神」に気づき、その特性を発揮させること。それが本来の「信仰心」であると思う。そうであるから、私たちは自分自身を価値ある存在であると思えるし、そこから本当の「自尊心」というものが生まれてくる。さらに、一人一人の中にも「神」が存在するから、周りの人も自分と同じように尊い存在であると認めることができる。
そして私たちは、個々の独立した「個性ある存在」であると同時に、神ともいうべき「大いなる存在の中の一部」であるということを、「教えられることによって、わかった気になる」のではなく、「心で感じることができる」ようになる。
K会での経験は、私たちにとって、「本当の信仰心とは何か」という、神からの問いかけであり、一人一人が「本当の信仰心」をつかむための材料として、私たちに与えられたものなのかもしれない。


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