2014年5月31日土曜日

差別観の克服(2)・・・K会の心のシミをとる③―2


(前回から続く)
4.激しいアップダウンで心が大揺れ

 
ORの差別観に支配された私は、K会での立場の変化によって激しく上下する感情を味わいました。これはほとんどの幹部職員や古くからの熱烈信者が経験していると思います。

まずK会で高く評価され、「〇〇菩薩」と認定されたり講師資格が上がったると、周りから賞賛され尊敬されるので、しらずしらずのうちにプライドが高くなります。私は法名をもらったり、講師資格や役職で優遇されていたころは、半ば無意識的にこう考えていました。

「自分は偉大な光の菩薩であり、この世においてのみうならず、あの世に還ってからもエル・カンターレのそば近くで人類を指導する立場に立つはずだ。イエスの弟子や釈迦弟子の時代よりももっと大きな敬愛の念を全世界の人類から与えられるようになるにちがいない。魂の本体である私は過去のどの転生よりも偉大な成功をおさめつつある。私の霊格は上がり、人類の歴史にも名を留めるだろう。」
ところがK会での評価が大きく下がったり、法名や資格が剥奪され、還俗した途端、一気にプライドはしぼみうつ状態になりました。

「自分は魂の本体にもかかわらず、今世は失敗してしまった。大幅に霊格が落ちた。法友も冷たい目で見るし、私に悪魔が入ったと言って警戒する。ほとんど誰も近づこうとしないし、助けてもくれない。この人生は生きているだけで苦しみだ。何のために生きているのだろう。」

そう考えて苦しみました。今思えば妄想に過ぎませんが、還俗した当時の私には、自分が人生の意味のほとんどを失った負け犬に見えました。それでも信仰にしがみついていましたが、その時にこう考えていました。

「エル・カンターレ信仰をもたない一般人とくらべると、私はエル・カンターレを信じている。OR先生は、エル・カンターレ信仰をもってあの世に還ることができれば、それだけで人生の成功であると説かれた。私はル・カンターレ信仰を持っており、エル・カンターレを信じない一般人とは明らかに違うすぐれた魂なのだ。最後まで信仰を手放さないで人生を全うしよう。」
 今にして思うと、まさに異常としかいいようのない妄想を信念として抱いていました。私は信者であった間はORが説いた価値観に添って、自分の立場や人の立場を測り、自分の気持ちが高揚したり落ち込んだり、人を尊敬したり見下げたりしてきました。表面にはっきり出さなくても、心の中でそういう思いにとらわれていたのです。

だから「お前は上から目線だ。それをやめないと人は離れていく」と生前の母親から忠告されたことがありました。しかし私はORに完全に洗脳されていたので、いったい自分の何が悪いのかわりませんでした。

 
5.過てるプライドを生む価値観

 K会の信者は、まずエル・カンターレを信じるか否かで大きく人間を線引きします。信じる人は天国に招かれたのであり、会員であるというだけで「今まで信者はすべて天国に還り、地獄に堕ちた人は一人もいない」というORの言葉を信じて、安心します。そして「エル・カンターレの本体が地上に生まれた時代に、ORの弟子となり、活動を支えることができた自分は、選ばれた人であり、一般人とは比較にならない価値がある」と信じ込みます。

その為に、自分が社会的に失敗していたとしても、信者であるというだけでプライドを保つことができます。それも単なるプライドではなく、精神的な優越性を確信するのです。自分がK会に中で貶められ、冷たくあしらわれ、下位に追いやられても、この「優越性」を握りしめることでプライドを保とうとします。そしてK会にしがみつくのです。

 しかし、かろうじてその一点でプライドを維持してはいるものの、エル・カンターレからの距離が以前よりはるかに離れてしまったということで、落ち込みます。そして何とか上昇しようとしてK会の中で活動したり、教学や布施に励みます。在家自体の私の熱心な活動の奥には、そうした動機がありました。

  それでは、K会の信者であることをやめ、アンチの立場に立ったら、このような価値観から一挙に解放されたかというと、残念ながらそうではありませんでした。何故かというと、この価値観は受験社会にその根を持っているからです。

実は受験社会の価値観を、あの世にまで拡大したのが、ORの平等観と差別感です。だから、受験の競争社会に生きる我々には非常に受け入れやすいし、K会の信仰を捨ててもなおその痕跡が残ってしまうのです。
(次回に続く)

 
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