2013年8月29日木曜日

依存性人格障害の視点から①・・・喪失


宗教を離れるとき


喪失の苦悩

深くかかわった宗教を辞めるということは、熱心な信者であればあるほど大きな喪失体験となるように思います。

それまで信じてきた生き方の指針、判断基準としてきた考え方、最終的な心のよりどころ、ともに活動してきた多くの仲間。そのほとんどを失うからです。これが自分だと思ってきた自己同一性の認識、つまりアイデンティティも崩壊する可能性があります。その結果、どう生きていけばいいのかわからないという方向喪失が生まれるのではないでしょうか。

また、家族に犠牲を強いて信仰を続けてきた場合、「家族が言うように自分が間違っていたんだ」と思うみじめさと家族との心の溝が残ります。熱烈信者であればあるほど宗教以外の人間関係を失っている場合も多く、孤独に直面する危険性が高いのではないでしょうか。ましてそれが職員となると、激しい苦しみを伴わざるを得ないと思います。

 

依存心の問題

その時に、自分がどれほど宗教に依存していたのかに気が付かざるを得ないのではないでしょうか。

宗教は、人によっては自分の心の課題からの逃避の場であることもあります。たとえば家族の中での居場所がなくて、宗教に安らぎを求めた場合などです。宗教を離れると、本来の居場所である家族との人間関係の調整という問題に、真正面から向きあわざるを得ません。

ところがその時に、判断のよりどころとなる教えが信じられず、支えてくれる仲間がいない場合もあります。こうなると誰しも何かに依存したいという心理が起こるのではないでしょうか。

その結果、別の宗教や心の団体、カウンセラーを探すか、誰か相談できる人を探したり、いずれにせよ親身になってくださる人との出会いが必要になります。その時に、自分は今非常に依存した気持ちを持っているのだということを知っておくことは大切だと思います。場合によっては危険な出会いに巡り合い、そこでさらに傷口を広げてしまう可能性もあるからです。

そうした危険を減らすためには、自分の中の過剰な依存心と向き合い、これを乗り越える努力がいるのではないでしょうか。そのために、私は依存性人格障害の視点から、依存心への向き合い方を考えてみたいのです。K会を離れようと考えている人や、何らかの理由で離れざるを得なくなった人のために、その衝撃を少しでも和らげる道を、何回かのシリーズで一緒に模索できればと思います。

(第2回目では私の依存体験を取り上げ、分析しました)
http://tanemura1956.blogspot.jp/2013/09/blog-post_3.html

<希望のブログ>

種村トランスパーソナル研究所「希望のブログ」では


人格障害についての全体像を解説しています。

人格障害について関心がある方は下記をご覧ください。
 
http://tanemura2013.blogspot.jp/2014/06/blog-post_26.html
 
 
<ご連絡ご相談はこちらまで>

種村トランスパーソナル研究所
メールアドレス:tanemura1956@gmail.com
電話:09080518198
 
  

2013年8月27日火曜日

(投稿)霊言パフォーマンスに欠落する礼節


世界を感動させた日本の精神


感動を呼ぶ3つの映像

幸福の科学では、寛容で開かれた団体であると言われているが、本当にそうなのであろうか?

種村氏に対する誹謗中傷、そして、日本国民に信仰心が無いと蔑み、このままでは日本は滅びると、日本の主祭神の名を騙り、国民を恐怖させようとする。

幸福の科学の信者には、その脅かしは効き目があるかもしれないが、日本を知っている外国人からみたら「???」であろう。

そこで論より証拠で下記の映像を紹介したい。
 


http://www.youtube.com/watch?v=oNyvFg-Y8Bo

 
ここに語られていることが「やらせ」と見える方は、素直に見ていただきたい。

日本人の精神がここに流れていることは容易に理解出来る。

人を感動させること、それは日本文化に在りということである。
 



 実力なき独裁者

幸福の科学の信者には、人を脅かし、自分の権威を保つために他人に迷惑をかけても少しも恥じないということは日本文化には馴染まないものであることを思い出して欲しい。

有名人の名を許可もなく勝手に使い「霊言」と称するパフォーマンスを行うことは、礼節に欠けることではないだろうか? 礼節に欠ける国師など存在するのだろうか?

今の大川総裁の行いは、独裁者にしか見えない。選挙活動中に他党の党首の印象を悪くするような録画を流しても恥じないのである。相手を貶さなければ選挙に勝てないと

思っていること自体が実力の無さを証明してしまっている。

「霊言」というパフォーマンスをする前に有名人と直接お話が出来るよう設定をしたら良いではと思うのだが、

相手にされないので勝手に名前を借用してしまうところに、この大川総裁の心の弱さ、教団の実力の無さを感じるのは私だけだろうか?


 日本文化の魂

また、教団から与えられた情報だけを鵜呑みにして判断している人たちには、冷静に見ていただきたい。

日本文化の精神の根底には日本古来の神と仏教精神の生活の上に育てられたものである。

そう、日本神道と仏教が融合して、日本文化の魂を作っている。

そこに神仏が既に宿っているということである。日本人が生きることは即ち神仏がともに生きているということである。さらに言えば儒教の教えも日本人は学び、礼節や親孝行の精神を身につけていた。このように良きものは学び向上しようとする精神があった。これは寛容の精神がなければ困難なことだと思う。

その伝統は今にも継承されているはずだ。

日本文化はもともと寛容な精神を持ち合わせている。

幸福の科学を信じないから信仰心が無いと決め付けることの恐ろしさを幸福の科学の信者は理解されていないのではないか?歴史的にみても日本人は神国・日本さらに、仏教国としての位置も確立してる。その国民に対して信仰心が無いと言い放つことは、それはまさに神仏への冒涜そのものであるということだ。

自らの選択した道に誤りがあれば、潔くそれを手放し、本来の道へ方向を戻す勇気を幸福の科学の信者の皆さんには養っていただきたいと思う。

 
信者の方々へ

「活動方法がおかしいと思いつつ、流されて生きていないだろうか?」

「教祖や団体に依存して生きていないだろうか?」

「独立した精神基盤を持って信仰を持っているのか?」

など是非自らを省みて頂きたい。あなた一人々が尊い神仏の子であることを思い出して欲しい。

世界に尊敬されている日本であるということを知って頂きたい。このままでは日本の恥部としての存在になってしまうことだろう。世界から尊敬されている日本人は沢山おられる。

その方たちは幸福の科学の信者ではないだろう。でも宗派を超えて尊敬されている。

その事実を幸福の科学の信者には見つめて頂きたいと心から願うものであります。

ご紹介した画像では、イラクやインドの方々から真の尊敬を受けた名も無き人々の記録がある。まさに、幸福の科学が言う菩薩たちの働きではないだろうか? 見返りを求めず、与えられた使命を果たす、清々しさ、尊さを学んで頂ければと思う。

 

 

 

 

2013年8月26日月曜日

幸福の科学の植福を考える㉔・・・辛い経験の意味


真実に向き合う

 真実に向き合うのは、時には非常につらいことです。しかし真実を避ければ、不幸になるばかりです。その時に自分に問いかけてください。「私はこの経験から何を学べと言われているのだろうか」「こういう経験をした意味は何だろうか」と。その問いかけが、次の道を開くと思います。

 その時に、ありのままの自分の気持ちを受け入れてください。怒り、罪悪感、情けない気持ち、思い上がっていた気持ち、神仏のために生きたいと願った気持ち、世の人々を救いたい願った心、そうした自分の心と向き合ってほしいと思います。そして「これも自分だ。確かにそういう自分がいた」と認めてあげてほしいのです。

 そして「ここからまた出発しよう」と思ってください。真実の自分に向き合うのは、自分のスタートラインの確認をすることです。「こういう自分から出発するのだ」と考えればいいのです。

経験の意味

 その際に、人と比較する必要はないと思います。それぞれ人は、異なった魂の学習課題と使命を持って生まれています。個性が異なります。その個性がどういうプロセスを経て、いつ開花していくかは、人によって全部違います。

 こういう体験をしたということを、事実として受け入れ、そういう体験をした意味を自分の心に問いかけるのですそして、そこから何を学べと言われているのかを、心に問いかけるのです
その問いへの回答は人それぞれだと思いますが、かならず貴重な学びを得ているはずです。それが見えてきたときには、それこそこの人生でつかんだ宝だと感じると思います。

 私は「エル・カンターレ信仰」という間違った信仰のフィルターを取り去って、真実を見つめる勇気ある人が増え続けることを願ってやみません。そして真実に向き合ったのちに、新たな希望へと共に向かってほしいと思います。

 

 

2013年8月25日日曜日

幸福の科学の植福を考える㉓・・・不信感の根本原因


言行の不一致
 

信者への裏切り
 もともとK会は、教えに惹かれて入信する人が多かった宗教でした。近年の本は別ですが、以前にはK会の本に書いてあることは、いかにも素晴らしい内容に見えました。


しかし、教祖と教団の実態が教えに反していることがはっきりするにつれて、私はK会が信仰を強調する狙いが見えてきました。教祖が100パーセントの信仰を力説するのは、実は信者に疑わせないための詐術であったと気が付いたのです。「説明する気はありません。ただ私を信じてついてきてください。」というのは、事態がもはや理性的に説明できなくなったのを覆い隠すためだったのだと理解できるようになりました。


教えを裏切る教祖と教団の言動は、信者への裏切りだと思います。ある元信者の方は、その点を鋭く指摘されています。
 

<大川氏の本には「良いこと」がたくさん書かれています。誰でも良いことを言うのは簡単ですが、実践できなければ意味がありません。神を名のるのであればなおさらです。

 大川氏は数々の言行不一致がありながら、自分を「仏陀」「救世主」とすることで、巧みな集金システムのもと、多くの人々から多額の布施を集め続けています。信者は「99%の信仰ではいけない、100%の信仰が必要である」と言われ、常に大川氏あるいは教団本部からの指示に服従し、目標達成のため必死で活動しています。大川氏はその教えで「与える愛」を説きながら、実態は信者の心を縛り、一切の批判を受け付けず、操ってきたことを私は許しがたく思います。

 これらは幸福の科学が「言っていることと、やっていることが違う教団」であることを表しています。そうであるにもかかわらず、自分を神として多くの人々から多額の布施を集め続けている大川氏は穢れており、今まで自らが常々強調してきた布施の大前提の三輪清浄が崩れています。

 真ではない活動を長らく続けてきたこと、そして信者に対して多くの経済的・時間的・心理的負担をかけてきたことに対するすべての責任は教団トップである教祖・大川隆法氏にあると思います。>

 
こう告発される方も、もとは熱心な信者であり、周囲の懸念を押し切って活動してきた方です。この方がどれほど無念を感じ取っておられるかと思うと、私は申し訳ない気持ちが起こります。なぜなら私がこの教団を初期から支えてきた事実は消えないからです。

 教祖の教団の実態をありのままに見ることが正見です。しかし、信仰はそれを見えなくさせます。信仰がなければ正見ができないとK会は教えますが、これは全くさかさまです。エル・カンターレ信仰がフィルターとなって、一般の人には見える明らかな事実すら、信仰を持つと見えなくなるのです。間違った信仰は邪見だというのは、K会の信仰にこそあてはまります。邪見に基づく行為は間違った行為となります。


私は信者さんの中には、本当に純粋な気持ちで布施されている方が少なくないことを知っています。この方々の気持ちを思うと、私は心が苦しくなります。この方々が真実に目覚め、真実と向き合い、真実を受け入れたときに、どれほど落胆され、後悔し、苦しまれるかを思うからです。



 

2013年8月24日土曜日

幸福の科学の植福を考える㉒・・・良識の叫び


良識を疑った家庭崩壊劇



家庭破壊劇の不信

 前妻きょう子氏の追放劇は、通常の日本人の感覚からすれば、考えられないことでした。「夫婦はお互いが相手を作っている」という教えをOR氏は説いていましたが、自分の責任は完全に棚上げして、前妻を公然と裁き、呪詛しました。家庭ユートピア、愛、正語という言葉が本当にむなしく思えました。熱心な信者が怒りを持つのは、当たり前です。熱烈信者だったご婦人の次の声は、多くの信者の声を代弁しているように思います。

<毎年822日は元奥さんの誕生日で、過去世が文殊菩薩、アフロディーテであると言われ、家庭ユートピアを謳ってアフロディーテ祭を行っていました。

 その時には、北海道正心館・限定祈願である「家庭万事円満祈願」という祈願が、国内精舎とハワイ精舎でも出来るようになり、元奥さんの事を「主のおそばで、主を献身的に支え続けておられるその愛あふれるお姿は、つねに仏弟子の鏡です。」と褒め称え「この祈願を通して、家庭の問題がすべて片付き、ますます幸福になる方が、たくさんでますようにお祈りいたします。」といううたい文句での祈願でしたので、信者はお金を出して祈願していました。

 大川氏は、元奥さんの過去世は女神のアフロディーテであり、文殊菩薩であり、ナイチンゲールであると称して、信者からお金を集め、彼女を称える為の建物を建てました。しかし、自らアフロディーテである、文殊菩薩であると言い、信者にも敬わせておきながら、夫婦仲が悪くなると一転して悪魔だと言い出したのです。一番身近にいた奥様の実態でさえ分からずに結婚し、5人の子供までもうけたのか。そして今度は自分のことは全く棚上げして、ただ一方的に奥様を非難し続けた態度、この人を仏と信じた自分がむなしく、バカバカしくなりました。その建物は信者には何の説明もなく、別名称に変えられていました。

 入会当時に、大川氏が元奥さんと結婚生活がうまくいっていないことや、女性問題を起こすような人物であること、私たちに説く立派な内容とは全く逆の人物であることを知っていたら、絶対に布施などしていませんでした。

 大川氏が元奥さんの事を悪魔扱いにした本を出版し、これを信者に買わせてみんなに配るやり方を、その当時していたら、私は入会もしなかったと思います。自分が愛し、結婚をし、多くの子供まで生んでくれた女性に対し、ここまでえげつない仕打ちをする人を、絶対に仏とは信じなかったと思います。>

 これは極めてノーマルな意見だと思います。

 


自己保身を振り返る

 私はこの追放劇を目にする数年前、ある元職員からきょう子さんに関する悪評を聞いていました。それできょう子さんが悪いのだと、その当時は頭から決めつけていました。従って、教祖の前妻への対応に対しては、実は弁護する側の人間でした。

 なぜ異常な教祖の言動を、私が擁護しようとしたのでしょうか。当時の私の心裡を分析すると、私の信念体系を擁護することで自分自身を守ろうとしたのではないかと思います。これを自己防衛のメカニズムと言います。言い変えると自己保身です。


真実を真実としてありのままに見ると、自分の信仰が崩れてしまいます。そうすると自分の精神的な基盤が崩れます。だからこそ、教団に同調してきょう子氏を否定する側に組みしたように思います。要するに、教祖を信じたいがために、きょう子氏の悪口を言う教祖の言葉を全部受け入れるという心理が働いていたのです。

 真実を直視して「教祖はおかしい」と即座に思えた人は、客観的にもの事が見えた人だと思います。しかしそう見えずに、教祖と教団の言い訳を丸呑みした人も、実は私と同じように、自分自身が崩壊するのが怖くて、真実を直視する勇気がなかったのかもしれません。これは無意識的な心の動きで、自覚していないことが多いと思います。


ですから教団を擁護してきた信者も、本当は心の奥底では傷ついていると思います。

2013年8月23日金曜日

幸福の科学の植福を考える㉑・・・私の後悔

職員時代の悔恨

罪悪感と自責の念

私も職員時代には布施の功徳を説いて集めた以上、それらの人の無念の思いの一部は受けなければなりません。このK会の洗脳集金システムに関するブログ記事は、私の罪をあがなうためのものです。

職員は、収益目標を必達することが常に要求されるので、ありとあらゆる方法を考えて集金します。私の場合は説法が得意だったので、もっぱら説法を磨きました。その布施の功徳や霊的な意義付けを考え出して、喜んで積極的に布施していただけるようにするのです。

たとえば「大乗のご本尊」を郷里の支部長として勧めたときは、新しい本尊の意義と功徳を霊的な体験や法にこじつけて、繰り返し繰り返し説きました。私は本尊が入ればその家に信仰が根付くし、地域も浄化されると思って勧めました。それを私の郷里への恩返しにしたいと思って、頑張りました。もっとも、新しい本尊が数多く入れば収益目標は簡単にクリアできるという計算は、口には出しませんが、心の中ではしっかりしていました。

そのトークが受け入れられて本尊が爆発的に伸びたため、全国の支部長がそのトークを使うようになりました。こうしたトークは、後輩職員に遺伝子として受け継がれたように感じています。

しかし、仏陀が偽物で、教団が邪教団になると、私のトークの技術は邪命説法すなわち霊感商法の話法に転落します。動機が故郷への恩返しだったとしても、私の故郷を霊的に汚した事実に変わりはありません。この罪悪感と申し訳ない思いは、ほかの人に味わってほしくありません。

 

2013年8月22日木曜日

幸福の科学の植福を考える⑳・・・信者の怒り


熱烈信者の無念                                               
 



不信を招いた過去世問題

 教祖が大救世主にして仏陀であるエル・カンターレであると信じるからこそ、信者は進んで布施をしてきました。しかし、これが騙しのテクニックだったことが明らかになった時には、施者には無念の思いだけが残ります。次の元信者の発言は、多くの方の気持ちを代弁していると思います。

<今まできょう子氏に対してなされた布施は、大川氏が彼女を文殊や女神アフロディーテの生まれ変わりであると言ったことに基づいてなされた布施であり、その説を変えた今は布施の根拠をすでに失っています。しかし、大川氏は突然今までと違うことを言いだしたことを、私たち信者に誠実に説明、謝罪することをせず、むしろ過去世の認定はまだ本当はやっていなかった、としてうやむやにしました。そして前妻は悪魔だったと衛星放送で妻の悪口を全信者に向けて言いました。

 私はそれまで大川氏を救世主だと信じ、お金、お金の活動も耐えてやってきました。しかし、大川氏が信者に女神だとして敬わせてきた妻に対するあまりにひどい仕打ちに、私は大きなショックを受けました。これを「神のおっしゃる事だから本当のことである。人間心で判断せずに、主について行こう。」と思うことはとてもできませんでした。「家庭ユートピア」は名ばかりで、教えを説いた教祖自身がそもそもそれを実現できなかったのだな、と私は失望しましたが、この本音も支部の仲間にはとても言えず、とても苦しい思いをしました。>


教祖と教団を信じて布施してきた方の善意が傷つけられ、それに対して何ら謝罪がなされていないことに対して、私は元職員として本当に申し訳なく思います。騙され欺かれていたことを知った信者は、ご家族に申し訳なく思い、布施を勧めた人に申し訳なく思い、自分自身を責めていると思います。


 今は教団を信じている人も、真実に目覚めれば、次に来るのは怒りですが、その次にくるのは罪悪感や自責の念だと思います。



2013年8月10日土曜日

幸福の科学の植福を考える⑲・・・三輪清浄


汚れた布施とは何か

 


3つの汚れ

 K会(幸福の科学)は布施の正当性の根拠として三輪清浄を強調してきました。三輪清浄とは仏教で説かれた布施の理念です。三輪とは施者、施物、受者であり、この三つが清浄でなければならないという教えです。清浄というのは執着の穢れがないことです。

 三輪清浄の教えに従えば、次のような布施は汚れがあり、功徳がない、つまり悟りの因とならないとされます。

 

 施者が見返りを求めて布施を行い、教団から重要視される立場や、名誉や名声、特別待遇を求める布施は汚れています。布施は与える行為ですから、見返りを求めるのは取引となり、貪欲を断つ修業としての価値はなくなります。自分の名前で支部精舎が立ったという名誉を求めたり、多額の布施をすることで教団内で重要な立場や尊敬や注目が欲しかったり、布施の見返りに仕事上での取引を有利にしたかったりすると、施者に穢れがあるとなります。

 

 施物は金銭や奉仕や土地や物など教団に捧げるものです。通常はお金です。そのお金が不当な手段によって稼いだものであれば、施物に汚れがあるとされます。例えば盗んだお金、詐欺的商法によって得たお金は、そのお金に執着の念や恨みがこびりついていますので、汚れています。

 

 受者はK会では教祖一人です。職員は受者ではなく、教祖から給料の支給を受ける立場です。受者が自分の私欲や行き過ぎた事業欲のために金集めをしたいという思いなら、受者は汚れています。

 特に仏教で厳しく禁じられたのは、受者が悟りを偽って布施を受け取る行為です。仏陀でないものが仏陀と偽って布施を受ける。阿羅漢でないものが阿羅漢の悟りを得たと偽って布施を受ける行為は、宗教的な詐欺であり、無間地獄に堕ちるとされてきました。過去世を偽って集めた布施も汚れています。

 

出家者と勧進の問題

 K会は厳密には受者は教祖一人とされていますが、職員は教祖の命令を受けて布施を集めるので、信者から見たら受者です。仏教では出家者は全部受者になります。この出家者が、自分の営業成績をあげたいためにお金を集める。目標に及ばず左遷されるのが怖くて布施を集める。教団から賞賛や名誉を得たくて布施を集めるならば、それは汚れています。我欲を満たすための行為なので、悟りの因とはならず、執着を深めるにすぎないからです。

 

 仏教は布施は貪欲を制し執着を断って、相手に与える行為だからこそ、悟りや幸福の因となると教えます。霊的な功徳を求めてする布施であっても、それが欲しいがために布施をするならば「無功徳」であるとするのが仏教の立場です。

 だから、出家者は在家の人が無執着の与える心を起こして布施をされるように導くのが修業であり、在家の人に功徳を積んでもらう行為とされたのです。これが勧進の意味です。

 

 勧進する人の心と、布施する人の心は合わせ鏡です。勧進する人の心が、自分の我欲から目標数字達成のためや自分の名誉心や出世欲からお金を集めようとしたなら、差し出すひとはそこに何か嫌なものを感じます。強制感や出させられたという不快感を感じさせることもあれば、施者に名誉や賞賛が欲しいという気持ちを引き出します。こうなると迷いの増幅をしていることになります。そうした布施には功徳がありません。まさに無功徳です。ですから、布施を勧める(勧進)側は、常に自分の心に執着や我欲はないか、在家の方に悟りの因となるような布施の心を起こさせ引き出せているかを自戒しなければなりません。

 にもかかわらず、K会でそういう指導を私は教祖からも誰からも受けたことがありません。私自身は仏教の精神に基づいて、そういうことを強調したことがありますが、組織的に勧進する職員の精神性を高める指導は一切されなかったと思います。ただ、目標達成した支部長は賞賛され、そうでないものは非難される。それが教団のカルチャーでした。

2013年8月9日金曜日

(投稿)「怒り」と「憎しみ」について ②・・・怒りの起源


悪魔の誘惑



 エゴ(自我)による破壊感情


 前回、「至高体験」について述べました。マズローの欲求段階でいう「自己超越」の段階ですが、この心境にいるときは、「怒り」や「憎しみ」とは全く無縁となりました。

 自他は一体であるという感覚が生まれたからです。

 そして、「幸福感」と「感謝」に満たされたからです。

 そこに「怒り」や「憎しみ」が入り込む余地は全くありませんでした。

 
 ということは、「怒り」や「憎しみ」から離れないと、自他一体の「自己超越」の境地に到ることはできないことになります。

 そうしてみると、これらの破壊感情は、「自他を分け隔てた」境地の中で生まれるといえます。また、これらの破壊感情を持つことで、さらに自他を分け隔てることになります。

 
 この自他を分け隔てる感情は、「自我」とも言われます。

 
 要するに、「怒り」や「憎しみ」は、「自我」から生まれ、「自我」を増幅させる方向に自らの心を向かわせます。他のマイナス感情も同様であろうかと思います。

 これらの感情を持つことに罪悪感を感じるならまだ救いはありますが、これらの感情を持つことを「正当化」してしまうと、大変危険な方向に自らの心を向かわせることになります。

 まさしく、「悪魔の誘惑」といっても過言ではないでしょう。私はそう感じます。

 
「悪魔の誘惑」というのは、通常は人々の「欲望を誘う」ということが代表的なものだと言われていますが、この「怒りと憎しみを誘う」ことも「悪魔の誘惑」だと思います。

 とくに「正義感」や「自尊心」などに訴えてくることがあるので、そこは十分な見極めが必要です。「正義感」や「自尊心」が絡むと、自分が怒りや憎しみの感情を持つことを正当化してしまい、ブレーキが利かなくなりやすいからです。

本来の自己
 
 私たちは「愛」と「調和」が、「怒り」や「憎しみ」よりも、はるかに価値があり、喜ばしい感情であることを知っています。

 自らの心境を高めるには、何を捨て、何を選ばなければならないか。私たちは心の奥底ではそれを知っていると思います。
 
 自らの存在のみならず、他者の存在も尊重することの大切さ。

 自分のみを益するのではなく、他者との調和を大切にしていくことの大切さ。

「愛する」気持ちをもったときに生まれる幸福感。

 多くの人の役に立ったときに生まれる心の満足感と喜び。
 
 心を静めて、自らの内を深く見つめてみれば、必ず透明感あふれる清らかな源泉を見つけることが出来るはずです。

 その源泉、つまり本来の自分にたどり着いたとき、自己を超えた存在を感じることができるのです。

 小さな「自我」を乗り越えて、本来の自己に出会うため、そうした大いなる価値を持った自己に出会うために、常に「悪魔の誘惑」には負けない勇気を持っていきたいと思います。

 そのような気持ちを分かち合える人々が増えていかれることを強く願っています。



<希望のブログ>

種村トランスパーソナル研究所「希望のブログ」を始めました。
 
「真実を語る」とは別の心理学の専用のブログです。

 関心のある方は、下記をクリックください。
 
<ご連絡ご相談はこちらまで>

 種村トランスパーソナル研究所
メールアドレス:tanemura1956@gmail.com
電話:09080518198


2013年8月8日木曜日

幸福の科学の植福を考える⑱・・・布施の穢れ


浄化できないと憑りつかれる


信仰強化の真の狙い

 OR(大川隆法)氏は教団初期の経営は、ある経営コンサルタントの忠告に従っていました。その経営コンサルタントは言いました。
 

 「宗教団体が広がらないのは、信者から布施の深堀りをするからです。相当数の信者層ができる前に、集まった信者からお金の深堀をすると発展が止まります。広く浅くお金を集める。これが教団発展の秘訣です。」

  この方針に従って、初期の頃は高額商品や布施集めは控え、OR氏がストイックに労働し、高品質の商品とサービスを提供することに努めました。その結果、信者とファンのすそ野が拡大していったのです。

   しかし、その後、実質的な活動信者は増えないにもかかわらず、OR氏の事業欲は拡張し続けました。その結果、明らかに信者の深掘りが恒常化していったのです。活動信者一人当たりの金銭負担がものすごく重くなりました。

  「どこまで布施を求められ続けるのだろうか。きりがない。」「もうこれ以上続けたら生活が持たない。」と思って活動から身をひく信者も増えていきました。

  それでも学園建設、大学建設、全世界への支部展開と精舎建設、政党の創設と選挙、映画の作成上映と、多額の資金を必要とする事業は増加する一途です。必然的に集金目標額は上がり続けます。しかしそれを支える信者数は横ばいかむしろ減少していきます。このジレンマを解決して集金目標を達成していくには、信者の信仰心を強くする以外にありません。

 こうして熱烈な信仰心を持つように信仰指導がなされるようになりました。OR氏が地球神から宇宙の根本仏へと、更にはそれ以上の存在と宣伝されるようになったのには、そういう背景があります。エル・カンターレを偉大化することで教団の求心力を高め、布施を集めやすくする。そういう隠れた狙いがあったとみると、K会の異常な信仰教育や集金活動は合理的に説明できるのではないでしょうか。

 
 
 


欲念浄化のすべがない

  K会の布施は、全て教祖であるOR氏への布施であると見なされています。布施の受け手である「受者」はK会の職員でも教団でもなく、教祖一人なのです。エル・カンターレへの布施というのは、そういう意味です。だからOR氏は教団のお金をすべて自分のものであると考えています。

  ここから大きな問題が生まれてきます。施者である信者に「見返りを求める気持ち」を巧みに煽ることで効率的な洗脳集金体制を創ってきたために、見返りを求める執着の念という「汚れ」が増大していったのです。その汚れは当然OR氏に集まります。布施の唯一の受者である教祖に、お金だけでなく汚れ(信者の欲念)も集中するのです。

  私はOR氏の前の奥様から、「教団の総資産が3000億円を超えたあたりから、OR氏は明らかにおかしくなりだした」と伺ったことがあります。私は、そのあたりで教祖は信者の汚れを受けきれなくなり、その汚れに染まって転落していったのではないかと思います。これは集合念である信者の欲望の念を吸い込んでしまい、自分がそれに呑み込まれたという意味です。


 いくら対価性がないのが布施だから見返りを求めてはいけないと建前で言っても、実際には見返りの制度化を図っている以上、信者の欲念が布施には付着しています。それが一定レベルを超えると、受者が受け止めきれなくなって、その欲念に憑依され支配されるようになるのだと思います。

  もし教祖が、「頂いたお布施は神への捧げものであって自分に与えられたものではない」と考え、神への感謝の儀式をし、そのうえで神から預かった布施を神と信者のために使うのならば、汚れは浄化され教祖が汚れを受けなくてすみます。


 しかし、K会ではそうした考えは受け付けないので、汚れを浄化するすべがありません。その結果、教祖は汚れを受け続け、自分の器以上に受けて欲念に飲み込まれ支配されるようになったのです。欲望の集合想念に憑りつかれた教祖の誕生です。これは念の法則として最も警戒しなければならないことです。執着を断つという布施を推進しながら、施者である信者も受者である教祖も欲望の想念に染まっていく姿は、宗教として最も悲しい姿だと思います。

2013年8月7日水曜日

幸福の科学の植福を考える⑰・・・善意のゆくへ


執着と与える愛

 
天の蔵と執着

 私はこれまで、K(幸福の科学)では布施を集めるために、見返りがあの世で10倍の富となることを強調したり、名誉や重要感、祝福などの現実的な見返りの制度化が図られていることを述べてきました。

 すると信者は、見返りを求めないのが布施であることを知りながら、心は見返りを求める欲に縛られていくことになります。見返りも、それがこの世的なものかあの世的な見返りかで、意味が異なってきます。
 

 天の蔵に徳を積むということがよくいわれます。これは、この世で教祖の捧げる布施はあの世で10倍の豊かさとなって与えられるという意味と同じです。これはこの世的な執着ではありません。

 あの世で豊かになるなら、この世で貧しくとも、このお金を尊いもののために差し出そうという思いは、やはり尊い部分が多いと思います。

 しかし、あの世に投資するような気持ちなら、その尊さは損なわれるはずです。
 

 では、見返りの制度化はどうでしょうか。教団内で得られる名声・名誉、自己重要感、祝福、それらを得たいという気持ちなら、この世的なものです。お金をそれと交換したわけです。これは取引に近くなり、尊さは激減します。

 布施をして、結果としてそうしたものが与えられ、それを淡々と受ける。それなら執着ではありません。しかし、人間の心は弱いものです。教団から与えられる見返りに、信者はいつしか心をつかまれていきます。執着の増大です。
 

布施の心と勧進の心

 宗教において布施の功徳とは、差し出す人の心境できまります。そのために執着を去った清らかな心、信仰心から生まれた深い感謝の気持ち、純粋に尊いもののために差し出したいという心、人の幸せのために使ってほしいという愛の気持ち、そうした心からなされた布施は、尊いものです。その心を起こしたことが、その方の功徳となり、心の平安、喜び、そして来世の幸福の因となります。

 
 それには勧める(勧進する)側、つまり布施を受け取る側が清らかでなければなりません。布施を勧める側の純粋な思いが純粋な布施の心を呼び起こし、目標達成や自己保身のためにお金を集めたいという思いは、見返りを求める執着の布施を呼び込むはずです。

 私が職員の時代は、勧進する側の想いの大切さを意識していました。できるだけ信者さんが清らかな心境で布施してくださるようにと意識して話しました。それでも、多くの布施が集まったときには、得られた結果を誇る気持ちがありました。

 職員時代は勧進する側だという気持ちが強く、出すことにおいては非常に少なかったと思います。しかし在家になったら、できるだけ布施をしたいという気持ちに切り替わりました。あまり多額の布施をできないことが苦しみでした。そしてその時にお布施をしたいのにできない苦しみを信者が抱いていることを知りました。

 

善意の布施のゆくえ

 布施ができない苦しみは、もっとお役に立ちたいのに立てないという苦しみです。そこから人々は繁栄を願うようになります。そして繁栄系の祈願や研修をこぞって受けるのです。受けるに際しては数万円から数十万円の布施を研修祈願費として支払います。そしてもし経済的な繁栄があれば、更に布施をするのです。手持ちのお金はなくなります。もし繁栄できなければ、研修と祈願でさらにお金が無くなります。いずれにしてもお金は信者から教団へと流れ続けるのです。
 

 善意の純粋な布施もあると思います。その布施をした方は、その心に応じたよき報いを受けると信じたいと思います。

 しかし、仏陀であると偽って受け取られた布施は、本当によきものを与えてくれるのでしょうか。偽のダイヤを「これは本物のダイヤモンドです」という言葉を信じてお金を支払っても、得られるのは偽物の石です。

 
 ある人はこう例えました。老いた母親を喜ばせたいと思って、娘が母にお金をあげたら、母親はそのお金を孫に上げてしまった。こんなことならあげるのじゃなかったと思ったが、どう使うかは受けての責任で、与えての責任ではない。だから布施をした信者が純粋な思いでした布施は、受け手が間違った使い方をしても、布施した人の責任ではないと。

 しかし、母親と思った人が、実は魔女が化けた姿だったとしたらどうでしょうか。母のためにと思う純粋な心は尊いとしても、魔女にだましとられてしまった事を無念に思うでしょう。そして魔女が勢力拡張と自分の身を飾るためにそのお金を使うことを、さらに無念の思いで見るのではないでしょうか。

 そこからは布施を返還してもらいたいという思いが、当然湧いてくると思います。