2013年7月31日水曜日

幸福の科学の植福について⑬…見返りを求める心理


布施の見返り

 

 K会(幸福の科学)では、一方で恐怖心と罪悪感を巧みにあおりながら、他方で布施をすることによる功徳(効能)を強調することで、集金目標を達成しています。

 
 布施は仏教的に言うと、本来は執着を断つ修業であり、慈悲心を育てる行為です。そこでK会でも布施の見返りを求めないことの大切さが、経典や祈りの中で強調されています。

 しかし、実際には「見返り」を強調するだけでなくそれを制度化しています。その結果、信者は見返りを求め期待する気持ちを抱くようになります。純粋な思いで布施したように見えても、心の底では見返りを期待しています。

 

見返り・・・あの世の見返りは10

 

 まず最初に期待する見返りは、K会で布施をすることにより、布施した金額の十倍の豊かさをあの世で得ることです。これはこの世でなした善も悪も、あの世では10倍の報いを受けるという説に基づいています。

 ですから、布施をしつくして貧しくなってあの世に還っても、あの世に行けばその10倍の豊かさが与えられると信じますと、気持ちは豊かになれるのです。

 勧める方から言うと、これは「銀行の利子はわずかだけれど、K会にお金を出すと元本の10倍になって返ってきます。」と主張できます。しかも「ただし受け取るのは死んでからです」ということなので、「この世的な執着を持たない」という教えと矛盾しないことになるのです。

 実際にそうなるかどうかは誰も確認していません。もし違っていても、死んだ人からはクレームが来ません。つまりいくら強調しても、責任が問われる心配がないのです。

 なお、この説を裏返すと、この世で金持ちでも、布施をしていない人はあの世では貧しくなるのです。信者はあの世で貧しくなることを恐れ布施します。またこの世では布施した結果貧しくなっても、布施していない金持ちより豊かになれると信じているので、内心では優位性を味わうことができるのです。

 

見返り②・・・次の転生で金持ちになれる

 
 K会に布施すると、あの世で10倍の豊かさが与えられるとともに、次に生まれ変わった時に金持ちになれると教えます。今の人生で貧しいのは、過去の転生で十分な布施をしなかったからでしょう。しかし今世十分な布施をすれば、次の転生では金持ちになれますと説きます。

 これも縁起の理法の応用です。今世、布施をするという功徳を積めば、次に生まれ変わった時には豊かになれると信じることで、布施をして貧しくなっても、それが気にならなくなります。

 この説を逆にすると、布施をしない人は、次に生まれ変わった時に貧乏に生まれることになります。「次の転生で貧しくなりたくなかったらしっかり布施をしなさい」というと、これは宗教的な脅しです。

 

見返り③・・・天国にいける

 
 K会では布施をすると天国に生まれることができると教えます。これは根本経典『仏説正心法語』で、施論・戒論・生天論が強調されているからです。布施をして戒律を守ると天国に生まれることができるという教えです。

 この教えを逆に使うと、「布施しない人は天国に行けない」という脅しとなります。根本経典を示しながらこう言われると、天国に行きたい人は一生懸命に御布施をすることになるでしょう。実際にトークを脅しに使って、布施を集める支部長がいました。

 

 以上の見返りは、いずれも今世に得られるものではなく、あの世に還ったときとか、次に地上に生まれ変わるときに得られるものです。これを強調する利点は、結果の確認ができないことです。だからいくらそれを強調しても、そうならなかったという責任が問われません。

 しかし、これには弱点があります。確認できないので、インパクトが弱いのです。従ってこの世的な見返りが必要です。K会では布施の見返りを制度化しています。それを次に見ていきます。

2013年7月30日火曜日

(投稿)執着からの脱却


大いな叡智を感じ取るとき
 

 
人は、無い物を得ようと苦しみ、得たら得たで、それを失うまいと苦しむ。

人から多くの愛情を得ようと苦しみ、得るものの少なさに、また苦しむ。

価値なるものを、自分以外のものに見出した結果である。

 
宗教では、それらの執着から離れることを教える。

または、自分の中に価値を見出すことを教える。

 
老子は、そのような無価値なものに心を捉われず、大いなる道(タオ)に身をゆだねることを教える。

 
しかし、それをわかっていても、人は相変わらず、自分以外のものに価値を見出し、苦しみ続ける。

 
頭ではわかっていても、心で捕らえていないからだ。

執着の愚かさを理解しているようで、本当はわかっていない。
 

執着の苦しみから離れようとしたら、「大いなる叡智」を自らの心で感じ取る必要がある。

自らの心を見つめていったときに、そこに大いなる叡智とつながっているものがある。

それをつかんだものだけが、自らの本当の価値を「心」で知ったものだけが、

執着の愚かさを知り、とらわれの苦しみから抜け出すことができるのだ。

 
頭で理解せずに、心でつかむこと。

 
「悟り」を求めようとしても、「悟り」は逃げていく。

形あるものではないから、捕まえることはできない。

「悟り」を知るとは、「神の偉大なる叡智」を知るということ。

それは求めてつかまえるものではなく、私たちが本来心の奥に持っているもの。

それに気づくだけのこと。

「難しい」ものほど、「簡単」に見える。

しかして「簡単」なものほど、「難しい」。

心を落ち着かせて、静かに心の中をのぞいてみれば、

そこには必ず、「大いなる叡智」の輪郭の一部が見えてくる。

そう。「悟り」とは、追いかけ求めるものではなく、気づき、受け入れること。

そうすれば、一人一人がその人自身の「悟り」を得ることができる。
 
そのような気がする。

 

2013年7月29日月曜日

(投稿)日本神道について考える・・・修身の方法

心を清める


 日本神道は、現在では、教えよりも儀式を重んじる宗教です。当たり前のことですが、古来から、日本の生活習慣にしっかりと根付いてきました。日本各地にある神社は、日本人の心のより所として、人々の手によって代々大切に護られています。

 
日本神道の儀式において大切なことといえば、場を「清める」ということです。「身を清める」「周りの場を清める」ということを大変重視します。

 
まず、「身を清める」ことは、当然のことながら、「心を清める」ということにつながっていきます。身を清めることによって、心の穢れを払います。
また、儀式を行うに際しても、普段から心を清める「修身」が必要であるし、儀式を通して、心を清める「修身」を行っているということになろうかと思います。
これは、仏教における「座禅行」にも相通じるものでありましょう。座禅行も基本的には心の平安を追求する「修身」であるのでしょうから、神道においても、このような儀式を通じての「修身」もあり得るのではないかと思います。
どちらかといえば、密教に近いようなスタイルであろうかと思われます。

 
身を清め、心を清らかに保つことによって、いわゆる神の御光を地上に降ろすことが可能になってきます。神の光のパイプ役となるには、穢れなきことが必要条件となってきます。

 
日本神道は、古来より神の威光を地上に降ろすことを常としてきました。それは政治においても当てはまります。神の御意向を地上に降ろしていくことは、本来の理想的な政治スタイルであるのではないかと思います。現在のように多数決による烏合政治よりも格段に高レベルでありましょう。
これは、神主においても、同様なことがいえるでしょう。


 また、「心を清める」には、当然のことながら、自らの心を見つめていくという作業も必要になってくると思います。今後、機会があったら勉強してみようと思っていますが。当然ながら、神道にもこのような修行形態があったのではないかと思っています。

 このようなことを想定すると、日本神道というものは、決して中身のない宗教ではなく、本来は「修身」を中心とした、「高度な宗教であった」と定義づけられると思います。実際にそうであったかどうかはともかく、宗教としてはこのような修行形態も可能であろうと思われます。

 
現在は、全くもって、単に儀式を中心としているだけの、中身のない宗教でありますが、それは今の仏教と同様であろうかと思います。長い年月において、仏教同様、姿形を少しづつ変えながら、世の中を生き抜いてきたのでしょう。それ自体が悪とはいえませんが、「本来の日本神道の精神とは何ぞや」ということを少しでも考えてみる必要があると思いますし、今まで日本を守ってきた伝統ある宗教について「原点回帰」して考えてみるということは、とても大切なことではないかと感じます。

現在、日本は数々の危機に瀕しているように見えます。
ただし、日本がここまで単一国家としてこの国を守り抜いてきたのは、この国を守るために大きな力が働いているということでしょう。その力の源とは何か、それを追求して見極めていくことが、この国を救う真の力となり得ると感じます。

2013年7月28日日曜日

(投稿)帰路にて・・・


子供との対話、木々との対話

 


今日の朝、子供を部活に送りに行ったときのこ
 
とでした。
9時に集合し、用具を運搬車に乗せてから試合場に行くという通知をもらっていました。

9時の数分前に到着したのですが、子供はブツブツと文句を言っている模様。
理由を聞くと、9時というのは「9時に荷物を乗せ終えて出発できるようにする」とのことでした。
子供は、部活仲間に「おまえだけ遅いぞ。」と文句を言われ、不満げに車に戻ってきました。
通知通り間に合ったのに、おかしい。という子供に対して、私は一喝しました。

だいたい、集合時間というものは、予定時間より早めに行って準備しておくものだ。
悪いのはおまえだろう。

そして、試合場までの間、議論は続きました。結局、折り合いの付かないまま、子供を送り届けました。
非常に後味が悪く、子供の時間のルーズさにとてもイライラしていました。
反省もなく、相手を非難するだけの子供に、とても腹立たしさを感じました。

帰路の途中、森林の中を突っ切る道路を通っていました。




 
木々に、問いかけました。
「だっておかしいだろう。自分の言い分は間違っていないだろう。」

木々は答えました。
「そういうけど、おまえさんの考えが正しいという保障はどこにあるの。」

「時間を守らないというのは、人間的に失格だ。親が子供を教育するのは大切な義務なんだ。」

「もっと、落ち着いて考えてみたら? 子供を教育すると言っているけど、相手の言い分を聞かずに、自分の価値観を子供に押しつけているだけなんじゃないのかい? あなたの持っている価値観って、本当に正しいの? 」

「でも、このままじゃ、とても心配なんだ。何とかしたいんだ。あのルーズさを。」

「セカセカするだけが人生じゃないよ。相手の価値観を、自分の価値観で縛りたいだけだろ。人間には、百人百様の価値観があるんじゃないのかい。」

「そうかもしれないけど・・・。」

「自分の価値観を相手に押しつけることは、自分で自分を縛っているのと同じなんだよ。自分自身を、自分の型に合った小さな枠に押し込めているのさ。そんなの君の望んでいることじゃないだろう。相手の価値観を認めてあげることで、自分の枠が広がるんじゃないの。」

森林を抜けて帰路に向かいました。少し心が軽くなっていることに気付きました。
言われてみればそうかもしれません。
ただ、自分の言い分にも、正当性はあると感じました。

自分の価値観を追求し、それを他人に広める(押しつける)。
他人の価値観を尊重し、認めてあげる。

両者とも正しいようで、全く逆のベクトルです。
どちらかが間違っているとは言えません。
どちらにも良い点はあるし、悪い点はあります。
片方は進歩の追求で、もう片方は調和の追求といったようにも見えます。
しかしながら、私たちは、調和と進歩を融合していかねばなりません。
進歩と調和を併せ持ってはじめて進化というものが実現できるのではないかと思います。

この2点を融合させていくこと。
これが自分に課された修行課題であると感じました。


 

2013年7月27日土曜日

(投稿)ショッピングモールにて



息子のゆくえ

 
仕事から帰ってきて、ホッと一息ついていた矢先のことでした。
突然、妻からの電話・・・。
今日は、子供達を歯医者に連れて行くことになっていました。
この歯医者は、ショッピングモールの一角にあったので、治療を終えた後、妻が買い物をしている最中に、子供達は、となりの本屋で立ち読みをするといって、長男と次男の2人で本屋に行きました。長男と次男が本屋の中で別れてみている最中に、次男がいなくなってしまった、ということでした。
となりには、ゲームセンターや電機店が隣接していたので、電話で妻に、そっちのほうも探してみたら、と伝えました。

しばらくして、気になったので、見つかったかどうか電話してみると、
「まだ見つからない・・。」
ということでした。
次男は、普段からチョロチョロしていて、じっとしていられない性格です。まだ小学校低学年なので、誘拐でもされなければいいが・・・。ふと不安がよぎりました。

仕方なく、私もそのショッピングモールに向かって、一緒に探すことにしました。

不安がっていても仕方ないので、車の途中で、そのショップモールにいる次男に向かって自分の意識を向けてみました。

今どこにいるのか。何か事が起きていないか・・・。

すると、本屋の児童書売り場で、座りながら本を眺めている次男の姿が浮かんできました。
小さく丸まって見ているので、よく探さないと見つからない感じでした。

「ああ、大丈夫そうだ。うまく探せずにいるだけだ。」

うっすらと浮かんできたイメージだったので、大した確信も持てないまま、先入観では、必ずゲーセンにいるはずだ、まずゲーセンを探して、もしいなかったら、本屋の児童書置き場を探してみようと思って、急いで、ショッピングモールに向かっていると、一本の電話が。

「ようやく見つけた・・。」

ゲーセンやスーパーに行っても見つからず、結局本屋に戻ってもう一度探してみると、小さく丸くなって本を見ていたようです。浮かんできたイメージとだいたい同じような感じでした。
何回か本屋を探しても見つからなかったようなので、よほど見つけにくい状態で本を読んでいたのでしょう。

「ああ、こんな感じなのか・・・。」

親子の関係なので、意識がつながりやすかったのでしょう。
他者に意識を向けて、それを感じ取るということは、ほとんどしたことはなかったのですが、
非常に有益な経験をさせていただきました。

帰りに、家族みんなで、アイスを食べて帰りました。

 

2013年7月26日金曜日

依存心と向き合う⑰・・・克服のために


信仰と依存
 


傲慢への戒めと信仰

 信仰心が篤い方を依存心が強いように受け取られる向きが少なくないと思います。事実、教団への依存が強く、家庭が崩壊したり職場の人間関係が崩れていく場合には、その信仰は限りなく依存に近いように思われます。

 しかしそうかといって、自分より上位の目に見えない存在を認めない心は、傲慢だと思います。自分が一番高くなってしまった心は傲慢です。

自分が大宇宙の根本神より偉くなったと言いだせば、その人は無間地獄に行くしかなくなると思います。OR氏は織田信長を批判して「彼には魔王が入って自分を神とするようになった。その慢心と支配欲により魔王に支配されるようになった。その危険を感じて明智光秀は本能寺の変で信長を倒した」という説OR氏は説きました。その批判は、OR氏にそのまま返っていくものと思います。地上に生きる人間はそこまで偉く思いあがってはいけないと思います。

 その意味で、私が小さなORにならないように、自分を超えた上位の神への信仰はしっかりと持ちたいと思います。
 
導きの手

 それと同時に、その根源の神と自分がつながっている以上、自分の心の内に神の声を追い求め、それに従って私自身の個性を発揮して使命を果たす生き方をしたいと思います。もしその内なる神の声が間違っていたら、さまざまな苦難困難行き詰まり現象が起きて、方向修正を導いてくださることも信じています。

 私たちは、大きな計らい、大きな愛に生かされています。試行錯誤をして数多くの過ちを犯しても、生きることを許されて、そして生かされています。数々の試練の中で、挫折や不幸に見舞われても、やがて立ち上がって真実を求め続けようとするのか、それでもなお神を求める気持ちは本物なのかを試されているように思います。そうした大きな愛を私は信じます。これは信仰です。これがもし依存なら、それは「よき依存」であると思います。

 
許されて生きる

 私たちは目に見えない愛、目に見える愛、多くの存在によって生かされています。それを信じゆだねることができるからこそ、安心して生きていくことができます。

 間違った宗教を選択しても、その間違いに気づき、そこから何かを学ぶことも許されています。邪教に染まり間違った行為をした自分を、なおも多くの方が支えてくださいます。それは愛だと思います。

 願わくばそうした愛に生かされ支えられていることをいつも忘れず、私も私の個性にあった愛を出せるように生きていきたいと思います。

 そして自分が自信がないことを、誰かに丸投げするような依存心はなくして、自分ができること、やるべきことを一心にやっていきたいと思います。
 
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2013年7月25日木曜日

依存心と向き合う⑯・・・知的な依存


法帰依の落とし穴




書籍への依存とその原因


 K会で私が身につけた依存の一つに書籍依存があります。OR氏の教えにまずその分野の専門書を1000冊読めという教えがありました。これが私には書籍をとにかく数多く読むという行動に向かわせました。

心理学を勉強するために、最近3年間で1200冊程度の本を、記録をつけながら読んでみましたが、書物の知識に依存している自分が生まれました。専門家がどういっているのかが気になり、知識的な根拠を確かめないと落ち着かなくなったのです。一種の思想の憑依状態にもなりました。自分の心で感じ取って、心で味わったものが消えて、専門知識と照らし合わせてものを考える癖がついていきました。ある人の言葉や感情を自分の心で感じ取り判断するのではなく、専門知識に照らして合致するものを探すという思考パターンです。自分の心に照らして合致するから真実であると考えるのではなく、専門知識に合致するから真実であると考える思考パターンです。

この思考パターンの特徴は、自分がそう判断する根拠として、専門家の名前や著作を挙げたくなります。考えてみれば、OR氏の教えに照らして真偽や正しさを判断する習慣がK会にいた時に沁みついていました。自分の主張の根拠を常にOR氏の言葉に求め、それがあれば安心し、自分の正しさを確信するという習慣です。除名されて以降は、それがOR氏以外の権威者に変わったにすぎません。

 
経験と心で検証する

OR氏の思想の正邪は、OR氏が言ったから正しいのでも、OR氏が言ったから間違っているのでもないと思います。その思想やOR氏の指示に基づいて実践して見て結果がどうだったかを検証する。その思想やOR氏の指示を自分の心に照らしてみて、本当に正しいと思えるかどうかを検証する。そういう二つの作業が必要だと思います。そのうえで正しいものは、自分にとっての真実として受け入れればよいですし、それが間違っていると判断すれば、断固捨て去ればよいと思います。これは宗教でも心理学でも、あるいは他の科学でも哲学や思想でも同じです。

その意味で、このブログでも紹介させていただいた「(投稿)脱会者からのメッセージ」 http://tanemura1956.blogspot.jp/2013/05/blog-post_18.html のシリーズは、愛について投稿者が実践して血を流してつかみ取った思想なので、とても貴重だと思います。

また「(投稿)洗脳解除、そして脱会へ」シリーズでは、投稿者は八正道を実践して味わった切実な体験から、K会の反省法への批判がなされています。http://tanemura1956.blogspot.jp/2013/05/blog-post_2930.html

まだ後遺症に取り組まれている途中であると思いますが、こうした営みの中から、自分のよって立つ思想や信仰が生まれてくるものと期待しています。そして私自身もそういう道を歩みたいと思います。

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依存心と向き合う⑮・・・除名後、退会後の依存心


隠れた依存心



愛されたい願望の抑圧

 子供が親に対して反抗したり攻撃する行動が、愛されたいという気持ちの裏返しである場合があります。愛されたい、認められたいという気持ちが抑圧されていると、それを認めてその抑圧と向き合って対決し、浄化しないかぎりは、潜在意識化の抑圧に支配され、不自然な反発が続きます。


 同じことがK会(幸福の科学)やOR氏(大川隆法氏)に対しても起きる可能性があります。そこで私は自分自身の心の中にある依存心に向き合うことを通して、そうした抑圧を見つめ、対決しようとしてきました。評価され愛されることを求める気持ちは過去にありました。夢でもそうしたテーマが出ていましたので、抑圧されていたと思います。どこまで浄化できたかわかりませんが、あるものをあると認めてそういう気持ちを持っているのも自分であると受け入れることを通して抑圧されたエネルギーは解放され、心の浄化は進みます。悪しきK会への依存心を捨てるためには、そうした作業が不可欠だと思います。

 

未解決の問題
 
 抑圧され隠れた依存心があるかないかは、K会やOR氏を語るときの言葉の響きや感情に現れると思います。冷静に理性的にありのままの姿を見抜いて語るときは大丈夫だと思います。しかし執拗に攻撃的になったり、どろどろした感情が噴き出したり、さげすんだり、皮肉ったり、あざけりの感情が出る場合は、心の中にまだ浄化されていない感情があり、それが隠れた依存と結びついていることが少なくないと思います。

 また執拗にOR氏やK会にこだわるのも、それがなりすぎると、隠れた依存心が感じられることがあります。要するにそこにまだ未解決の問題があることを教えてくれているように思うのです。これは私自身がこのブログを書いているので、そうしたものがないとは言い切れないと思います。ただ、私はK会との4つの裁判に関わってしかも係争中ですので、なかなか関心をもたないわけにいかない事情があります。また、K会問題は大きな社会問題であり、苦しんでいる人も数多くいらっしゃいますので、洗脳解除と後遺症の解消については私がやるべきことがあると思います。
 
夢に現れる兆候

 隠れた依存心を探るヒントの一つは、自分の夢を分析することだと思います。私はこの「依存心に向き合う前は、夢の中で、自分の方がすぐれているしもっと貢献できるのに、別の人が重要視されているので、なんとなく気分が悪いという夢を何度か見ました。もっと評価されたかったという感情が抑圧されていたと思います。しかし、このブログを書きだしてからは、そうした夢はぷっつり消えました。夢は私が向き合うべき抑圧を教えてくれていたようです。
 
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