2013年5月31日金曜日

(投稿)洗脳解除そして脱会へ・・・幸福の科学の教義、反省の誤り⑩


5.真理は唯一、不滅の美しいままの神の心

  

 以上で記述を終えますが、私自身振り返ってみて、悟りに対して、当時なんと難しい道を歩んでいたものかと痛感しました。我欲は悪なるものと決め込んで、我欲を完全に取り除くことが悟りであると錯覚を起していたのです。しかも、後光が射して霊道まで開いてきますから錯覚します。

しかし、現象はただの現象にしか過ぎません。大切なのは、自分の心が愛に満たされているかどうかです。人間の幸福は、心が愛で満たされているかどうかだと思います。

我欲は、それに捉われて自分の為だけに使おうとすれば欲そのものになりますが、他人の幸福の為に使おうとすれば愛に変わっていきます。愛に変える為には、内なる神の心に感謝して、内なる神の心を愛することが大切だと思います。

唯一、絶対の真理は内なる神の心が愛であるということです。この神の心の前では、自我の為の我欲は去っていくしかないのです。

 歴代の聖人、救世主が説いたのは一言でいえば、愛の心です。インドの釈尊も同様に、不生不滅の愛の心を説いたのだと思います。愛ある人生が全てを幸福にしていく。神より与えられた唯一の永遠に変わらないままの美しい心こそ自他共に幸福になっていく道ということを示されたのだと思います。

内なる神の心に感謝して愛すれば、神の愛の想いが現れて、自我我欲は両極端に去り、神の救いが訪れる。

洗脳解除で苦しんでおられる方、脱会後に心がいうことをきかずに苦悩している方、恐怖心で苦しみ続けている方、霊障で苦しんでおられる方、信仰難民で苦しんでいる方、神の救いを待ち望んでもいっこうに救いが来ない方が一刻も早く元の元気な心、元気な自分に戻られますように、心からお祈り申し上げます。

 

(投稿)大川隆法引退勧告 続


ばい菌をまき散らさないでほしい


 
幸福の科学は創価学会を批判しておりますが、私からすると

どっちもどっちだなあと思っています。
 

新しい奥さんと結婚したので、もう引退して引きこもって

皆の前に姿を現さないで欲しいものだと思っているのです。
 

去年、選挙のときに、ちらと大川隆法の映像を見たのですが、

「新聞もテレビも見なくていいです。幸福と書いてください。

そうしたら幸せにしてやる」みたいなことを言っていて、あきれ果て

ました。

 
この傲慢不遜さは、どこからくるものだろうかと、呆れております。

そんなことを言えば、皆逃げていくというのにね。

 
こういう大川隆法の性格が伝染して、職員は皆「上から目線」で

ものを言うようになるのです。

「幸福の科学をないがしろにする国民は馬鹿だ、天罰だ」というのりです。

 
正直いってこんな職員たちを世の中の人は誰も相手にしてないと

思います。
 

それが通用するのは、「幸福の科学という閉じた世界の中だけ」のように

思うのです。そこにいれば、信者からちやほやされていい気分になれますが、

実際、世の中の人は関心持ってません。

 
私が若い頃ですら、誰も関心もってなかったですもん。あはは。

 
大川隆法の時代は、とっくに終焉を迎えているという気がする昨今なのです。

 
もう、幸福の科学から離れられない人たちだけの、「マンセーの世界」

だけで、こじんまりとやっていただき、あまり日本国民の前で、ばい菌を

まき散らさないで欲しいと願っているのです。

 (次回に続く)

 

2013年5月30日木曜日

(投稿)洗脳解除そして脱会へ・・・幸福の科学の教義、反省の誤り⑧

 
③中道は内なる神を見出す愛の道、八正道は愛の人生

愛の想いが前面に現れてくれば、愛の想いの人生が中心になってきます。内なる神の心を愛する想いが深まれば、我欲は両極端に去っていきます。この捉われて離れずしがみついている極端な想いが執着になっていくのです。極端な想いとは、例えば愛する想いが執着となり憎しみに変わっていくような心です。つまり、ただ欲を満たす為の欲という心から見た極端な想いが去っていくのです。

逆なのです。我欲を中心に考えて、極端を見極めて中道を探るのではなく、愛の想いが出てくれば、我欲は自然に極端に去っていき自然に中道(仏性、内なる神の心)が現れてくるのです。つまり、中道は、どこまでも限りなく、内なる仏性(神の心)、他人の中の仏性(神の心)を愛する道、即ち、仏性(神の心)を見出す道、無限の向上の道ということになります。

 ④四諦に感じる釈尊の慈悲

苦、集、滅、道というのが教義にもあります。私はその語源は知りませんが、苦の原因である我欲の原因を一々突き止めていくことは、不可能に近いと思います。釈尊が凡人には到底できないようことを救世の法として説いたとはどうしても思えないのです。

私がとことん実践した結果として思うのは、釈尊は、「苦(苦の原因である我欲)をまとめて、滅する道(昇華させていく)がある」と説かれたような気がします。我欲が滅されれば、神(仏)の心である愛(慈悲)の想いが姿を現してくるのです。それを実現するのが、内なる神(仏)の愛(慈悲)の心を根底とした八正道だと思います。内なる神の心を愛して、その心で八正道を実践すれば解ります。愛の八正道です。

我欲が連鎖して我欲を呼び、到底選別することができない様々重なり合った消せない我欲を満たす為の想いは、愛の想いによって、まとめて両極端に去っていき、純粋なる欲が愛に向い昇華していきます。

我欲の「我」は「自分の為の」と考えれば簡単です。愛の想いによって、我が退き、他の人の幸福の為に自分は実現していく、という意欲に変わっていきます。愛の想いで満たされた時に、我欲は去り、愛しか心にはないはずです。幸福感しかないはずです。感謝しかないはずです。そこには、恐怖、不信、怒り、憎しみ、貪り、愚痴、高慢、嫉妬、自己卑下、劣等感、嘆き、悲しみ、絶望、裁き、はなく、素直さ、謙虚さ、笑顔、信頼、喜び、自信、希望、反省、足る事を知り、感謝、する想いが湧き上がってくると思います。

内なる神の愛が姿を現せば、我欲はまとめて極端に去り、愛心で満たされる。

この内なる神の愛を見出す道が、どこまでも無限に神の愛に近づいていく道が中道である言われたのだと思います。

(空と中道の関係についての考えは、次回投稿します。要点として、空と中道は密接に関係し、人の想いは全て根本神に直接的に繋がっていると思われる。)

その実践方法として、八正道を説いたのだと思います。生きていく上で愛を忘れない限り、自分や他人、社会が幸福になっていく道だと思います。我欲を探求しても答えはでないのです。我欲の中には我欲があるのみです。一つ我欲が湧けば、連鎖して次々と湧いてきます。

しかし、愛を実践すれば答えはでるのです。大好きな人に断られ、ずっと尾を引いて苦しんだ自分が、一発で苦悩から逃れられたのは、「あの人が結婚して幸福になっていくことを私は願おう」という愛の心が出たときに、執着は去っていったのです。

愛無きところには裁きがあります。愛は憎しみにもなりえます。これは、我欲の目で相手を見ているからなのです。しかし、内なる愛の心が目覚めれば、憎しみは両極端に去り、愛の想いが現れるのです。

長い年月を修行、修行といって行なわなくとも、今日から明日から誰でも変われるのです。誰でも中道への道を歩めるのです。釈尊の救世の法は、万人が実践できて、万人が今日からでも自己変革していける。万人が今日から人生を好転させていける。それ程までに本物の仏陀の法は凄いということです。

参考「洗脳解除に役立つ本」


(投稿)洗脳解除そして脱会へ・・・幸福の科学の教義、反省の誤り⑦


4.教義の中道理論の誤り

 
①理屈や解説では何にもならない

K会(幸福の科学)の教義では、中なる道である中道を難しく説いていたのを思い出します。ですから今やその知識はほとんど思い出せません。それ程、理解できていなかったということです。これでは、教示しても何にもなりません。

釈尊が万人を救うために果してそんな難解な法を説かれたのでしょうか。もしそうなら、当時の方はほとんどが救われなかったということになります。色々な説はあるでしょうが心の教えになるとは思えません。仏陀はもっと簡単なで誰でも実践できる法を説かれたのではないでしょうか。記憶している中で「断常の中道」とか「苦楽中道」とか言っても解らない方がほとんどでしょう。多分、説いている方が本質は理解できていないと思われます。いくら理屈や哲学的な解説をしても実践できなければ何にもなりません。教えが死んでいます。

 ②愛の想いは消せない我欲を昇華させる

私は、釈尊は慈悲の思いで生きることを教示したと私は思っています。我欲もそうですが、捉われないという一言で済むのなら苦労はしません。我欲を取り除けといっても難しいでしょう。中道は、何処が中道かといっても解りません。今目の前にある物は有るのか無いのかといってもある物は有ります。そんな議論より、不生不滅の内なる神の心、仏の心を愛することを教えたように思います。イエス様が神の子に愛の心を教えたように、釈尊も慈悲の心を教えたのではないでしょうか。

中道は我欲を排した所に現れてくる境地でもあったと思いますが、問題は我欲を排するところです。肉体がある以上、我欲は消えません。我欲を突き詰めていくと結局は肉体から派生する理由にほとんどが行き着くと思います。ほとんどの我欲は実は消せないのです。これを消す事は、肉体の否定、死ぬ事です。

だから、我欲を消す原因を追究(K会の教義)しても無駄なのです。生活状況や社会状況によって、理性で統御しているのです。理性で統御できないで無茶をすれば悪を犯したり、苦しみが生まれます。

ですから、我欲は昇華させるしかないのですが、その根底に来るのが愛の想いです。

 

(投稿)洗脳解除そして脱会へ・・・幸福の科学の教義、反省の誤り⑥


③正思は内なる神に感謝して愛しているか否か


正思は、愛の想いがあったかどうかです。愛の目で見ようとしてできないのは、その時の思いがどうであったかということです。つまり、正見は、相手の中の神の心を見ようとしたかどうかなのです。それができないのは、自分の中の神の心を見られてはいないということなのです。正思において、内なる神の心に感謝して愛する想いが途切れていることを意味しています。

 出発点は、内なる神の心に感謝して愛することなのです。だから、他者の内なる神の心を愛する事ができるのです。人の嫌な面を見て、嫌な言葉を聞いて、それだけを見て愛する事はできません。煩悩、我欲が発生してくるだけです。K会はこの発生してくる我欲と勝負しているのです。でもこれは間違いです。

そうではなくて、誰もが同一の本質である神の心を知り、愛心を見るからこそ愛することができるのです。

釈尊は万人に救済の法を説かれました。誰でも実践できないとおかしいのです。当時でも専門知識が必要なら出家者しか悟れないことになります。そうではないはずです。唯一、誰にでもある思いは愛の心です。釈尊は、誰にでも内に存在している慈悲の心を中心に説いたに違いないと思います。

 (正語、正命…、以降はみなさまにお任せします。愛の視点です。)

 

(投稿)洗脳解除そして脱会へ・・・幸福の科学の教義、反省の誤り⑤


2)神は目に見えないから良い


神は通常の意識では見えないから良いのです。神が見えないから神を知る為に自分の中の神の心を必死で探求するのです。自分の心に真剣に目を向けるのです。内なる神を探求することこそが、神への正信なのです。

正しい覚者を信じ、その説く法を信じることは、悟りへの道でしょう。それは自分の内なる神の探究と一致してくるはずです。その信仰の対象が間違ったり、転落していた場合には、内なる神の探究とどこpかで一致しなくなるはずです。そして過てる信仰に陥った場合や教祖が転落した場合に、それを盲信した場合には、その信者まで暗雲の中へ引きずり込まれます。

正信は、まず何よりも内なる神の心の探求、内なる神の心を愛し見出す道を歩むことなのです。それが必ず伴わなければならないはずです。

①正見は愛の目、神の慈愛の目で見ること

我欲を愛の想いで昇華させていくとき、我欲は我欲では無くなってきます。愛を実現していく想いや意欲に変化するのです。そして、愛を実現していくプロセスが、愛そのもののプロセスになっていくのです。ここに我欲という欲は消えていくのです。自然に去っていくのです。

千変万化しながら湧き上がる我欲を消すのは不可能です。その原因を一つ一つ探り解明していくのは、至難の業です。だから、K会の教義を実践しようとしても実践できず、悟れないのです。ですから、心を鏡に見立てるように、心の我欲をただの汚れとして認識させる法になっているのです。鏡から汚れを取れば良いと、そうすれば心はきれいになると。

しかし、この方法で心がきれいになったとしても代償を支払うことになるのです。落とし穴が待っているのです。心からは愛が隠れ空洞になり、豊かさは消え、常時我欲に敏感になり、相手の心にも敏感になり、自己処罰感が絶えず、積極性は消え、明るさが薄れ、無感情、無表情になっていきます。

そして、ついにその時がやってきます。霊道現象です。

これは悟りか、これも有る意味、悟りかもしれません。しかし、非常に危険です。魔が待ち構えています。あらかたきれいになったと錯覚している鏡に入り込むのです。きれいになった心だけで、霊道は開いてはいけません。人生が狂ってしまうでしょう。豊かな愛の心で開けないから転落するのです。


欠けている心は、豊かな愛の心です。我欲を取り除くだけの作業をしてきた結果は、単なる霊道です。鏡が冷たいままなのです。悟りの階梯に愛が欠如しているのです。だから、K会は冷たい団体になるのです。

これは、反省のやり方に誤りがあるのです。正見において決定的な誤りがあるのです。

正見は、愛の目、愛の心で他人を見たかどうかです。客観視ではないのです。仏の目、神の目は慈愛の眼差しです。愛の目で見ていこうとする中に我欲は発生しないと思います。愛の目が途切れたところで、我欲が発生していると思います。悪の発生要因は、愛の想いがないところに発生してきます。悪の原因が我欲なら、我欲は愛の想いが無い所に発生してくることになります。

しかして、反省は、相手を愛の目で見ようとしたか否かが出発点になります。これは、誰でもできることだと思います。客観視といえば、非情に難しい。ですが、愛の目ならば誰でもできます。

参考「洗脳解除に役立つ本」


(投稿)洗脳解除そして脱会へ・・・幸福の科学の教義、反省の誤り④

3.教義の八正道の最大の誤りは、根底に愛の想いが欠けていること

 









正道を捻じ曲げる正信の恐怖

1)目に見える生き仏を信じる危険性


親を愛し信じている幼い子供は誰でも親を真似ます。同様に人は強い信頼をおいている人の言われることを「あの人の言う事だから間違いはない。」と信じる傾向があります。ましてそれが、生きた仏への信仰であるならば、絶対的な信頼になっています。

生き仏の言葉は仏法、仏の教えといいます。この法の内容を吟味すれば良いのですが、信じるということは盲目に等しく信じている間は是非が解りません。それは盲目に信じるという思いは、思考停止を生むからです。「仏の法は絶対の理法で、全て正しい」という洗脳状態に入ります。私もそうでした。こうなってくれば、生きた仏の手足になっていきます。仏の想い実現の為の手足になっていきます。活動信者はまさに生きた仏の手足になっています。

正信(正しい信仰)というのは、一歩誤れば恐ろしい教えなのです。それを八正道の正見の前においているのは、八正道の実践で正見、真実に気がついてしまわない為のものです。ここが違うと、以降は全てこの信仰による目、行動で実践します。即ち生き仏の想い、欲望までも形を変えて自分の心にコピーされるのです。

K会では正業は法を広める事を最高として捉えます。その為に精舎、学校、埋葬所等を建立し、莫大なお金が必要になるので、布施の精神を説きながらも祈願、研修、法話の金額にまで目安の額が付加されています。高額になると1千万以上の目安で植福菩薩の称号を与えられます。

伝道、布施、研修、献本等は全て修行論として捉えられ、悟りの道への修行という見方をし、正精進ということになります。これは、法が間違っていれば全て邪道になります。そもそも布施に目安金額が付加されているのは布施の精神、正思に反します。これは生き仏の心が誤っているのです。目安金額が出せない人は、救われないということなのです。法話さえ聞けないのです。生き仏から見て、一番大切な法を説いても聞く人が限られてくるということです。経文には確か、仏陀の説法は宝の山とあったはずです。釈尊が貧者の一灯を説かれたのは、このような悪事を見通されての事だと思います。あくまでもまずその心、気持ちが大切であるということです。又、悟ってもいないのに一気に菩薩の称号を与えるのは、正精進に反しますから、本来の釈迦の八正道の精神に反しています。

つまり、八正道における正しい目、正見が出来ていないのです。正信というのは、正しい信仰により正しい法を学び、実践するということです。正見は、正信によって得た真理の目の心で世界をみていくということです。つまり、正信=正見、正しい目で見る為の真理が正信、真理の正しい目で見ていくのが正見ということになります。正見ができていないということは、正信が誤っているということなのです。

本来、八正道というのは、自己の心を反省によって点検し、過ちに気づいたならそれを正していくという実践論です。自己に向けられた修行法です。生き仏を仮に仏陀とするなら、仏陀が説く法で金銭の多寡を決めるでしょうか。悟ってもいない者に菩薩の称号を与えるでしょうか。高額な建屋を建立する事を先行させて、布施を集めるでしょうか。自分がもつ時計に一千万近いお金をかけて、それをいくつも収集するでしょうか。

これに気がつかない人は、信仰において思考停止の状態にあり、正邪の区別ができなくなっているのです。つまり、正見が実践できていないのです。誤った正信によって、目(心)に霞がかかっているのです。これに救世、菩薩、仏弟子というキーワードが重なれば、自己陶酔の状態に入って行きます。しかして、釈尊の八正道は、誤った信仰の道具になってしまうのです。

(投稿)洗脳解除そして脱会へ・・・幸福の科学の教義、反省の誤り③


2.反省の教義の根本的な誤りとは何か(後半)


2)我欲を悪視する所に悟りなし

肉体煩悩の原因を解決できていない教義

 K会(幸福の科学)教義では、我欲が出てくる思いの原因を取り除くということを言われていますが、全ての我欲に対し解決するのは不可能だと思います。確かに我欲が苦の原因ですから、我欲の原因である心を突き止め解明すれば、苦の原因を取り除くということに繋がります。我欲に捉われ続けると執着となって心から欲が離れず苦しむのですが、執着になる前に原因の我欲を取り除くことが先にきます。それが出来るものもありますが、できないものもあります。できないものは客観視の段階で我欲を感情の無いものに抽象化して意識から外していきます。これさえ、実はかなり難しいのです。でもどうしてもできないものもあります。

 例えば、色情の欲というものがあります。これは肉体煩悩から来るものです。原因は肉体です。肉体から来る欲は、一般的に消せないのです。欲の味をしめて心から離れずに異性に捉われると執着になります。ですから、K会はコントロールして捉われないようにアドバイスをします。中道です(後述します)。

しかし、何処までが中道か否かは凡人にはわかりません。中道を探ろうとしても難しいのです。ですから、自分や他人を害さない範囲内で理性による処理をされていると思います。

しかし、K会は悟りを求めます。いくら行為に出なくても心で思って捉われては悟りではないのです。そこで我欲がでる原因を探れというのです。原因を探れといっても肉体から来ているものは、答えが出にくいのです。

例えば、毎晩仕事で遅く睡眠不足になった時、仕事が溜まっているが睡眠をまずとりたい(睡眠欲)というのが我欲かどうかです。仕事中に寝てしまった場合は、我欲というより悪い行為に見なされます。半日休みを頂いて睡眠をとってから会社に来て仕事をした場合はどうでしょう。以降、仕事もはかどっていきます。睡眠欲を満たした方が良いのです。

色情欲はどうでしょうか。これは教義にもありましたが、我慢し続けるより月に1回処理したら以降捉われないならその方が良いというものです。これは我欲を満たすのを肯定している場合です。ここにも問題があります。肉体煩悩の場合、年齢、妻帯の有無によって肉体、条件が違うという事です。月に1回なら良いのか、2回までなら中道なのか、週に1回なら執着なのか、妻帯者なら許されるが独身者はどうすればよいのか…、ということです。教義では答えが出せていないのです。出せないのです。

これは悟りを目指して悟りの法を説いているわりには、雑過ぎるのです。何故なら、「修行者が最後まで悩むのは、特に色情の欲」だからです。一番つまずく所です。私もこれには悩みました。つまり、心の努力で消せない我欲の問題を、K会の教義では説けていないのです。これはK会の教義では悟れないということなのです。

因みに私は自己流で到達しましたが、色情の欲を消すには、色情を忘れるしかないのです。これは可能です(ただし肉体は機能を果さなくなっていく)。しかし、できない方がほとんどです。これは正しくはないと思います。これが正しいのなら肉体機能は不要ということになります。私もこれは本来の悟りとは違うと思い数年で止めました(止めると徐々にですが機能が戻ってきます)。

肉体煩悩は我欲の発生しやすい最たるものなのに、解決できていないのです。その結果、ただの禁欲へと教えが向うだけなのです。(しかし、教祖をはじめ、職員の実態はどうなのでしょうか。いろんな噂はありますが、外部の人間にはわかりかねます。)

以降、要点を簡潔に書いていきます。

 ②左右にハンドルを切り直す教えの誤り

K会ではよくハンドルを切り直すことを教えます。苦しみが発生しているのは、心の選択が誤っているからであり、選択を切替えなければいつまでも変わりません。だから、左に切ったハンドル(心の選択)で苦悩が発生しているのなら右に切り直せば済むことなのです。これが、ハンドルを切り直す教えです。ハンドルを切り替えるのは、今出ている我欲を断ち切ることと同じです。

しかし、金銭欲が出ている原因が、生活が苦しいからというのであれば、経済を得る為に仕事を工夫して効率を上げたり、休みにアルバイトをしたりというように良い方向に向えばプラスです。ハンドルを左右へ切り替えているというより、我欲を昇華させているという方が近いと思います。

又、お金がもっと欲しいから地位欲が出ている場合は、会社に貢献するように考え発想し一生懸命に働き実績を上げ、みんなの幸福に繋がる行動をもしていくことが大切です。やがて我欲は消えみんなの幸福を感じればそれが一番の幸せだと感じてくるのです。

もし金銭欲のハンドルを切り替えて、K会の教義通り足ることを知る心を実践しても、現実の生活が苦しいなら金銭欲は消えはしないでしょう。心を無理に納得させているだけです。それでは我欲を昇華させることもなく悟りもないのです。

上の人間を陥れ自分の地位を上げるということを考え行動した方は、暗闇が迫ってきます。こういう人は、常に不信、不安、恐怖の中で生きています。不幸です。これも我欲を昇華させていけば良いのです。

我欲は我欲だけでみれば、ただの欲ですが、欲を高尚なものへと昇華させていけば、我欲があるから悟りもあるということに気づくのです。我欲を単に悪視して、左がダメなら右というような単純な選択では本当には解決しないのです。これでは、悟れないのです。

又、ハンドルの左右切り具合がわかってくれば中道がわかってくるとも指導しますが、これは屁理屈です。我欲は千差万別で、出てくる状況、年代、環境、タイミング等で違い、同じ種類同じ深さではないのです。一つ一つ切り具合が分かる訳がないのです。

③我欲は愛の想いによって昇華していく

結局、K会の教義は単純に我欲を取り除くことが中心になっています。左右のハンドルも同じです。これは単純な故に、非常に難しいのです。何故なら、客観視による我欲の除去と同じ理屈だからです。

神が我欲を与えられているのは、悟らせる為ではないでしょうか。我欲がどこまでも欲の追求なら、欲また欲の暴流に流されていくだけでしょう。我欲を離れなければ執着になって非常に苦悩します。もしも我欲を離そうとすれば、客観視による除去になります。

しかし、我欲を昇華させていくことを考えれば、先では我欲が愛に変わっていくのです。我欲の先に待っているものは、愛です。金銭欲が恵まれない子供の為にという愛に変わっていくのです。その為に成功してお金を大切にしていこう。足ることを知ろうということになるのです。

ここで初めて、正しい教義は生きてくるのです。単に我欲は悪、身を滅ぼすものとし、我欲を消す、除去する方向へ向うのが、悟りではないはずです。我欲ほど自分に正直で純粋な心はないかもしれません。つまり、我欲は善悪どちらにも染まりやすいのです。ほとんどが悪の方へ流れます。これを善なる方、愛の想いへ流すのが悟りへの道ではないでしょうか。

我欲を悪視して見つめている間は、悟りへの道は遠ざかっています。

我欲を愛の思いで昇華させようと努力した時、悟りへの道を歩みだします。

探求が足らないのです。

神は人に無駄なものを与えてはいない、ということをもっと知る必要があると思います。

参考「洗脳解除に役立つ本」

(投稿)洗脳解除そして脱会へ・・・幸福の科学の教義、反省の誤り②


2.反省の教義の根本的な誤りとは何か(前半)


1)教義の客観視自体の大きな落とし穴

 教義でいう客観視というのは、物事を感情に流されず、ありのままを見るということです。教義では、客観視が八正道の入口になっています。つまり、まず客観視ができなければ八正道は実践できないことになるのです。見る時点で自分の主観、感情が混入すると以降の反省はいくら行なったとしても誤ったものになっていくからです。だから教義では客観視を入り口に持ってきています。

教義での客観視は主観に流されないとあります。これはつまり、心が我欲に流されずに見るということです。我欲は、苦の原因であり様々な欲、色情、怒り、恨み、憎しみ、愚痴、不満等であり、またその思いを起させている我欲です。人間はわかっていてもどうしても我欲に流される面はあると思います。客観視はかなり難しいのです。

 つまり、K会の教義でいけば、八正道は相当難しい実践形態になっているのです。入口の正見でさえ、一生掛かってもできないかもしれません。挫折していくのは、入口の入口である客観視です。ものの見方に我欲を混入させない為には、心に浮かんだ我欲を辞典で調べるかのように、これは我欲であると判定し、しかも我欲という自己の心以外のものが心に存在しているという認識をしているだけの状態を心に作り出さなければなりません。簡単に言えば、鏡に映った汚れ(我欲)を外部から人間が見て汚れ(我欲)だと単に認識しているような感じにどうしてもなってしまうのです。何故なら、我欲に心が感応すればその時点で心が我欲に流され始めているからです。

 インドの釈尊がこんな難しい難解な法を万人の為に果して説かれたでしょうか。私は、疑問です。ですから、K会でいくら八正道研修をしても、ものにならないのです。何十年経った今でも再び、八正道といっていますが、わからないのです。入口の客観視が実践できない、悟れないのです。ですから、悟りを開いた人を聞いたことがありません。但し、霊道を開いた人はお会いした事があります。教義の「客観視」は、これを実践していない方のほうが救われていると思います。信者に伝えたいのは、教義の客観視は実践してはいけないということです。とことんまで実践した私はそう思います。

教義の客観視には大きな落とし穴が待っているからです。幸いに実践するのには難解過ぎて、その分助かっていると思います。反省は単純でいいと思います。悪い心がでたら素直に詫びて、出さない努力をすれば良いと思います。日々、謙虚に誠実に「ありがとう」、「すみません」の基本でいいと思います。
 
①私心を殺す受身の客観視で無感情な人間になっていく

教義では、正見は客観視から入ります。様々な感情に捉われずに自分お姿が映った映像、自分の発した言葉などを客観的に見るということです。自分がどう感じたか、相手が自分を見てどう思ったか、真理に照らしてみて反省し、見方を真理に近づけていくというものです。

教義は一杯ありますが考え方は同じです。簡単にいえば、心の誤りを正し、智慧を持って「与える愛」の実践をして世の中を幸福にし、真理である仏の心に近づいていくことです。その一歩がこの客観視です。客観視ができていないと相手の感情や我欲に振り回されます。ですから正見で客観視が最初にきているのです。

主観や私心のない客観視は、一見して正しく思いますが、実は誤っていると思います。つまり、鏡なのです。鏡はただ鏡の前のものを映し出すだけです。鏡には感情がないので鏡は揺らぐ事がなく映しているだけなのです。この状態を心に作り出しているのです。鏡は相手の感情を知りません。ただ聞こえた言葉の内容や映像の内容を理解しているだけの状態を作り出しているのです。人間の言葉や映像を認識できるロボットと同じです。

例えば、同じ言葉を聞いても相手の思いは違います。K会の信者はよく「人が良過ぎる。」と言われるでしょう。誉めているのか、警告か、皮肉か、愛着を感じているのかは、相手の感情を味わってみて初めて解ります。主観をなくし、ただ言葉を受けるだけでは解らないことも多いのです。確かに私心や主観をなくして相手の言葉を受ければ、傷つきにくいのでその時に自分の感情はあまり出ずに映像や言葉を捉えることはできるでしょう。私はよく無表情、無感情といわれた事があります。このような客観視の弊害です。感情が揺らがなくなる代わりに豊かな心が失われていくのです。

客観視は、積極性がなければならないと思います。例えば、相手が自分に怒ってきた時に、相手が何故怒っているのだろうと思い、相手の気持ちや言わんとしていることを積極的に理解しようとすれば、心は傷つきません。そして、理解できたならその場で、謝れば後に反省はいらないのです。謝る言葉に心もこもります。ただ単に鏡に映すような客観視は、無感情な人間を作り上げていきます。これは、ロボットと同じです。断片的な法を埋め込まれたロボットなのです。

誰もが観音菩薩像を見たことがあると思いますが、なんともいえない笑みを浮かべて慈愛に満ちています。菩薩が客観視ができていないかといえばできていると思います。あのような方が生きておられたなら、みんな集まってくるでしょう。お解かりでしょうが、何かが違うのです。何かが。

 ②我欲のセンサーである客観視は、心を抑圧していく

心の中の我欲を取り除くということは、簡単に言えば、湧き出た我欲を「思わない」ようにするということです。思わないようにするにはどうするかといえば、「考えないようにする」ことです。これが進めば一刀両断の如く思いを断ち切れるようにもなります。その為には、常に我欲を識別できる心のセンサーが必要です。これが、第三者の目、客観視です。センサーによって我欲を発見すると心の中の「法マシン」(法にかなうように自動的に作動する心の働き。パターン化された思考の働き。)が我欲を取り除こうとします。

例えば、ステーキが食べたいという思いが強く湧いてきたとします。その時に瞬時に信者の我欲センサーが働いてこれは我欲であると識別します。すると「法マシン」が足ることを知る、「与える愛」という知識を心に浮かべます。現実にはお金が厳しいし、そんなお金があるならば、書籍を購入して献本しようとなります。足ることを知って粗食で我慢しようと思い、ステーキを思わないようにします。又、信者でなくてもお金が厳しいから望んでも仕方がないと思い理性で納得するのです。これは誰にでもあります。

しかし、理性では抑えきれないものもあります。 例えば、大好きな女性に執着を抱いている時がありますが、悩んだ末ついに勇気を出して告白したけれど断られたとします。断られた事は承知しているのに、心がいうことをきかず、諦められないことが若い時は特にあります。執着は苦しいものです。どうしていいかわかりません。我欲センサーがフル稼働しています。法マシンは検索中ですが見つかりません。ただ一つ、私心、主観のない見方の客観視、我欲を取り除くということだけが検索に引っかかりました。どうすればよいか自分で悩みます。結論は客観的な視点から見て、女性に捉われている心の感情を断ち切ってしまうことにしました。その為には、主観があれば感情が湧いてきて捉われるので、感情が無い状態の心を作り、捉われている思いに対して、「思わない」という意識を強く持つのです。

もう少し解りやすくいえば、心を客観的に視ている目(心)には感情はないのです。その目(心)から客観的に視ている心の中の我欲を除外するのです。除外とは「思いの外へ」というように我欲を意識しない状態を作っていくのです。これを繰り返し数日でその女性に対する感情が消えていきました。客観的な見方をして、自分の心をただ眺めている心があるような状態です。我欲が表れてもその感情に流されない心の目があるのです。そうすれば、捉われないようになってきます。仏に心から詫びて許しを請う努力をしても難しかったが、客観視による我欲の除去が成功して、その方は常に客観視をするようなりました。我欲に捉われないのです。

このような我欲の克服や心の解決は邪道です。邪道とは、苦しみの原因が我欲なら単に我欲を消せば良いという考えです。非情に科学的な考え方です。確かに我欲を思わなくなれば、欲による苦しみも消えていきます。禁欲的になっていきます。

しかし、このような我欲を取り除く心の作業で、実際に我欲の思いを断ち切れたかどうかは疑問があります。これはある程度、理性的な心がないとできないのです。第三者の目(心)というのはどちらかといえば理性的だと思います。心の底から間違いに気付くというようなことではなく、心に強制しているような感じがします。鏡に付着した汚れを汚れと見なさないようなものです。汚れを汚れと見なさないので我欲に感応しなくなります。最初は、かなり圧迫感が続きます。無感情で眺めている状態、第三者の目の心が悟りの中心になっていきます。喩えるなら第三者の目が人の目で、心が鏡、布切れが理性、人が鏡を布切れで拭く(意識しない)ようなものです。本来は3つ全て一つの心ですが分離されるような感覚があります。客観視は良いのですが、釈尊の法がすり替っているような気がします。

(種村注:この方法では、自分の心に沸き起こった感情を味わうというプロセスがなくなる。感情はこれを味わわないと、抑圧が生じて、結果、抑圧した感情に振り回されていく。抑圧するということは、意識がコントロールできない潜在意識の世界に追いやることに他ならない。自分の心の内に生じた感情は、これをまずしっかりと味わうということが重要である。そのためには自己受容が大切になる。受容し、それを味わって理解するのである。次にその感情が生じた原因を探ることが手順となる。K会の反省法では、不都合な感情は否定するので味わうことをしない。ゆえに抑圧が生じるだけでなく、他者にその抑圧を投影して他者を裁くことが生じやすくなっている。裁き体質が発生する一つの要因である。)
 
③内なる神の心、愛する想いを封じ込め、愛の発展を阻害する

 第三者の目で自分の心を視ると、我欲センサーが働くので「我欲に捉われる自分」を感情に流されずに認識できます。

しかし、ここには落とし穴が待っています。本来の自分の心から「豊かな心・豊かな感情」が奪われていくのです。これは、自分の心を鏡のように見立てているからです。これは誤れば非情に危険です。心の逆転現象を起していきます。つまり、第三者の目が真実の心で、本来、我欲を無くし幸福になろうとしている心が鏡になっていくのです。何故なら、心から我欲を取り除こうとする作業は、心を鏡のように見たてないと、取り除けないからです。これには私はいつも何かが違うという思いはありました。

例えば、Aが「Bがあなたの悪口を言っていましたよ。」と聞かされます。事実を確認もせずに、「あんな奴、死ねばいいのに」(実際に聞いたことがあります)と言って翌日からBを集団で虐めたとします。そして、Bは日々悪態を受け、無視をされ、ついに病気になって会社を辞めてしまったとします。よく聞く事例です。

ここで、「ざまあみろ」と思う人は、暗闇の世界行かもしれません。しかし、後で「Bの悪口は嘘でAが、Bが自分より仕事ができ大事にされるのを憎んで嘘をついていた。Bは母子家庭で、生活に苦労していたが明るく元気に仕事にも前向きで子供の為に頑張っていた。今回の病気で子供は修学旅行にも行けなかった。」というような事実を知りました。それでも、「そんなのは知らない」という人は、地獄への直行便が待っているでしょう。しかし、仏の子ならば、涙を流して心の底から自分の行なった罪を悔いるでしょう。その方の笑顔や元気な言葉が心に響いてくるでしょう。この時に、内なる神の心が芽を出してきます。このような話を聞いただけでも涙が溢れる人は、内なる神の心と共に生きているのです。この内なる神の心、愛の想いが本当の自分なのです。

しかし、客観視での我欲の除去は、心の方向性を誤ると冷たい心になっていくのです。悪口を聞いても、「今自分に怒りの心が少しある。だから、思わないようにしよう。」となります。ですから、例のような悲惨な状況にはなっていかないでしょう。

しかし、何かが違います。ただあのような酷い言葉が自分の口から出ているのに、気づきもしない反省もしない言動も悪いでは、その方は余程心を入れ替えてやり直さないと以降に奈落底が待っているでしょう。最低でも人としての心に立ってないとどうしようもありません。

そういうことではなく、一旦、「あんな奴、死ねばいいのに」という心が出たなら、その心を受容して「どうしてこういう心が出たのか」という思いを点検していき、「私は陰口を聞いたら鵜呑みにしてしまう心がある。まず事実を確認することを自戒にしていこう。夜に反省を必ず行い、直ぐに反応して言葉を出すのは止めよう。」という解決策、努力目標が立ってきます。心の解決へと向うのです。

ですから、客観視よりむしろ相手がどういう気持ちで陰口を叩いてきたかを受容しようとする気持ちを持つ努力をした方が誤解や怒り、復讐心も無くなり、間違いは起こりません。そして、受容をしていくと相手の心を受け入れる心器が大きくなり、しかも豊かな心になっていくと思います。

誤った客観視をすると、先ほどの例のような話を聞いても鏡に映っている姿をただ眺めているだけなのです。法マシンは、「これは本人の業、カルマの刈り取りである」と検索指示しています。「これでBは人を憎まなければ見事にカルマを刈り取った。Bの為に現れてきた現象なのだ。」と思うのです。これは捉われないというより、法知識を振り回すだけで共感がない「無感情」に近い心です。ですから、冷たさ、醒めたものを感じるのです。K会に冷たさを感じるのは、愛の法にも問題がありますが、こうした悟りの法にも問題があります。愛の教えと悟りの法が結びついていない所に原因があります。バラバラなのです。そうなるのは共感する心が欠落しているからです。

だから、イエス様のことを、自分で自分を周囲に迫害させているという結論になってくるのです。愛より智慧を優先させる悟りの法の弊害が徐々に大きくなっていきます。

それは、誤った客観視を実践すれば、一番大切な心である「内なる神の心、愛の心」を心の内に封じ込めてしまうのです。

その結果、心が「空洞化」してくるのです。

つまり、愛の発展段階と逆行していくのです。愛が減少し、衰退していくのです。

それは、愛より智慧を優先し、無理やり潜在意識を目覚めさせる法をとっているからです。

心は神秘です。我欲を感じなくなると禁欲生活に入り、心の曇りが取れてきて、霊道が開いてきます。

悟りを求めると、教義ではどうしても、我欲の除去を優先する為の客観視が根底にきます。又、千差万別に発生する我欲に対応できず自己流になってしまいます。具体的な実践方法が薄いからです。ですから何でもかんでも教義の客観視に当てはめていきます。これが、八正道の入口として説かれているからです。

その実践の結果、愛が隠れてしまうのです。
 
④過てる客観視による反省では、我欲は取り除けていない

 過てる客観視による反省は、第三者の目で視て常に発生する我欲を自覚しようとします。その時、心に我欲に感応していないときでも、我欲は心に内在していると思われます。我欲は、肉体に接している表面意識に表れてきます。表れる我欲の思いは、眼・耳・鼻・舌・皮膚の感触を伴って表面意識に映し出されてきます。心が表面意識に映し出された思いをどうとらえるかによって、その思いの存在価値が決まると思います。

例えば、上司に厳しい事を言われれば、相手の思いが表面意識に映し出されます。その瞬間に「きつい人」、「良い事言っているがきつい言い方」、「確かにそうだ、実践してみよう」、「上司は私に立派になって欲しいから言われている。有り難い…。」等々様々に心が思うと思います。心の思い方によって、相手の思いが決定され相手の思いの価値や言葉の価値が決まるのです。

人は自分が自分で相手の思いを決めているのです。相手が自分の思いを決めているのではないのです。つまり、我欲と見なされる表面意識に映し出された思いを心が思わなければ我欲にならない訳です。表面意識に映し出された単なる我欲というものになるだけです。

 だから、自分の表面意識を第三者の目で、常に眺めている必要があるのです。ですが、我欲という思い自体を自分の心で解決していないから我欲は客観的に残ったままになっているのです。

例えば、先ほどの上司が本心を見せて、「私を嫌ってもいいからこの仕事を体得して欲しい。それが君の将来に繋がるから。」と言ったなら、上司の心を受容して、「いい上司を持って幸せだ。頑張ろう。」と感謝と力が湧くでしょう。よくある話です。これは心が具体的に思って解決していることなのです。これで、上司への我欲は消えた訳です。

つまり、鏡を見るような反省、実践では、客観視が途絶えれば、解決できていない我欲が一気に芽を吹くことになるのです。だから、K会の教義では、悟後の修行ということをしきりにいうのです。これは、本質的には客観視の継続かと思います。これは、転落していきます。

常に悪霊悪魔の憑依のリスクが付きまとう

 ここまで読めば、推測はおつきだと思います。霊的になってきてしかも心が空洞化してきますから、心の器が出来ていない状態だと完全憑依されて入り込まれます。心の器が出来上がるまでに、潰されてしまいます。器が出来てくれば、鏡に魔が映っているような状態を眺めていられるので、難しいのですが外すことが可能になってきます。丹田や霊的な力が強くないとなかなか耐えられるものではないのです。

 

(投稿)洗脳解除そして脱会へ・・・幸福の科学の教義、反省の誤り①


脱会者からのメッセージ)反省の落とし穴を検証する

(解説・紹介)

 Xさんからの投稿です。Xさんは幸福の科学で学んだ反省法・八正道を懸命に実践してこられました。その結果、この教えでは悟りは得られないということと、この教えでは愛が消えていくということを、はっきりと悟るに至りました。ご自分の悪戦苦闘の経験をもとに、幸福の科学の反省法・八正道の問題点を明らかにしたのが、この投稿です。 私自身この原稿を読ませていただいて、Xさんのこれまでの求道の真剣さに頭が下がる思いがしました。Xさんが実践体験を通して気が付かれた幸福の科学の教えの致命的欠陥は、教えが素晴らしく見えるのになぜ実践ができる人がいないのかという疑問に、確かな答えを与えてくれると思います。

 すでにご紹介した愛の教えの欠陥と、この反省の教えの欠陥が明らかになることで、幸福の科学の教義体系の根幹部分が音を立てて崩れていくのを感じる人は少なくないと思います。在家の元信者から提起されたこの問いかけに、教団側はどう答えることができるのでしょうか。現在の幸福の科学の職員に、この問題提起に応えることができる人がいるのでしょうか。真剣に法を実践した結果生まれた問題提起に対しては、矢張り真剣に向き合って応えていく姿勢が法を説く人の責任であると思います。注意して見ていきたいと思います。




Xさんからの投稿)

 K会の教義には、正しい良い教えもたくさんあります。しかし、何故か実践ができていないのです。いざ実践しようとすると、どう実践してよいかが解らないのです。良い教えは書いているのです。例えば、正しく見たか(正見)というのがあっても正しいとは何かということです。正しいとは「仏の目」で見ることだと教示していますが、誰も仏の目は知らない訳です。大きな枠でこういう見方をするというのは、教示していたと思いますが、実践するとなればそれ以上に細かい様々な状況が現れるのです。「仏の目」は書籍に載っているといいますが、ほとんど抽象的で、実践論としては無理があります。大きな範囲で教示しても細かい実践はできないのです。大きな枠で教えていても実践できるのが、本来仏の教えのはずだと思います。ところが大川氏の教えでは、せっかく実践した場合でも、心の豊かさが失われたり、いつまでも苦悩の状態が続いたりします。勿論中には、教義のように実践できれば教義通りのようになっていく場合はあります。でも何故か幸福にならないのです。

これらはやはり、教義に何らかの誤りがあるからだと思えます。あくまでも私の体験上のことを基本として、霊的な点も踏まえて記述していきます。

(注意:霊的な点は過去の回想により記述しています。現在は、そのような力はありません。)


1.反省の教義と実践
①一見素晴らしく感じる反省の教義

 K会(幸福の科学)で教えられてきたのは、苦しみの原因は自我我欲であり、これが執着になれば、脱することのできない苦しみとなるということです。単に自分を悔い改める一般的な反省にとどまらず、心中の我欲の原因を見つけ、二度と過ちを犯さないように原因を取り除くという作業が重要であるということでした。これは理論的には正しいのです。苦しむのは心ですから、苦しみには心の原因があります。そして行為は心の現われですから、心の原因を解決しなければ苦悩は解決しません。

 狭義の反省において、苦しみの原因である我欲を取り除く作業は、汚れた鏡を拭いてきれいにしていくという作業に似ています。鏡をきれいにするにはまず、汚れた部分を認識しなければなりません。その部分を拭くことによって、その部分はきれいになります。これを日々少しずつ行なえば、鏡は全てきれいになります。ただ、汚れの酷い部分は何回も拭かなければ取れません。これは執着の部分です。

きれいになっても放置しておくと日々鏡は汚れで曇ってきます。ですから、日々、汚れた箇所を拭き取る作業が必要です。これが日々反省です。鏡は様々な汚れ方をしますので、何種類かの洗剤液を使って掃除をします。これが反省の仕方である八正道です。鏡の汚れを認識するのは、鏡に自分を映してはっきりと姿が見えるかぼやけて見えるかで解ってきます。この映し出そうとするのが客観視(注)です。反省においては、第三者の目で自分を視る、心と行いを心に映し出して視てみるということです。この教えは、一見真理にみえます。

(種村注:反省は自分の外に視点を移して自分を見ないとできない。外から自分を眺めるのが客観視の基本である。この視点の切り替えは、恐らく左脳から右脳へ使う脳の働きが切り替わっているのではないかと思われる。そこで切り替える方法だが、頭で考えただけでは切り替えることができない。これが反省法がうまくいかない理由の一番ではなかろうか。心理療法のエンプティ・チェア・テクニックを使ったり、そこから発展したロール・レタリングの要領を使って、自分の心の中でそれを行うとうまくいきやすい。自分の人生を映像としてみるのも客観視である。外から見ていることになるからだ。なお、種村トランスパーソナル研究所では「焦点づけの技法」を開発し、反省法をより高度にしながらも誰にでも行えるようにしている。)

K会では、反省を通して心がきれいになっていけば、自己や世界の真実を鏡のように映し出して、より正しい道を選択できる認識力が働き幸福な人生を歩んでいけると教えています。言い方を変えれば、自分の内に眠る智慧の目が芽生え、心が外部からの影響で心が揺さぶられることなく、他人を教導しながら無限の向上を目指して行くという悟りの状態、阿羅漢の境地になっていくということです。これを簡単にいうならば、「鏡は世界を映し出すが、鏡自身はなんら曇る事がない」ということです。これがアラハンの境地です。

この境地に近づいてくれば、霊道が開けてきます。K会の教祖(大川隆法)の教示の通りかと思います。ですから、私は長らくこの教えの誤りがわかりませんでした。教え自体は素晴らしく感じるのです。ただしこれは、愛より智慧を先行させている教示です。

教団の初期においては、まずは阿羅漢を目指すように教祖は言われていて、教団全体が悟りの向上に力を入れていたのです。しかし、個の悟りも十分でないのにも関わらず、大伝道の号令がかかると、そこから悟りより数値重視の活動に変貌したのです。
②反省の教義の実践

この反省法の教義をどう実践するのかというのが、次にくる問題です。反省の指針としては約2500年前の八正道という釈尊の教えがありますが、K会の教祖は真説八正道を教示していました。やがてそれは仏説八正道に変わっていきました。

私は日々反省していましたので、私の場合を簡単に書いてみます。ここでは我欲は苦しみの原因としています。K会の教義では、どう反省するかをきちんと説いたものは八正道の教示くらいなので、その説かれた範囲の中で各自が工夫するしかありません。そのために会員はどうしても自己流になってしまいます。まずは、私の実践ケースを紹介します。
 

①客観的に視て、今日1日を振り返る(時間的に、正見から正精進くらいまで)

②自分や相手が心苦しくなった(傷ついた)場面や欲に捉われた場面等を振り返る

(見方、思い、言葉、行為など大体は正見から正精進までが精一杯)

③客観的に視て、発した想いが正しいかどうかを考える(我欲か否か)

④相手の気持ちを考える(又は、相手がどういう気持ちになったかを思ってみる)

⑤相手に、心から詫びる(自分の非を認め相手の気持ちが受容できた時以外は難しい)

⑥仏に、心から詫びる (自分の非を認め相手の気持ちが受容できた時以外は難しい)

⑦客観的に視て、発した心がどういう我欲であったかを考える

⑧客観的に視て、どうして我欲が出てきたのかを心で考える(場面、その時の思い、行動等より)

(解らない場合は、保留してK会の書籍でヒントを探し探求を続けていくが、解らない場合が多い)

⑨我欲を心から取り除こうとする(鏡を拭き、汚れを取る)

(教示通り、心から欲の思いが湧かないようにその心を取り除いていく)

⑩明日から実践する課題を決める(⑨を実践する、八正道の実践:主に正見から正業)

と大体はこのような感じです。これだけするだけで、結構時間が掛かります。たいへんです。しかもお祈りもしますので、2時間くらいは過ぎていきます。

この中で難しいのは、⑤⑥の心の底から詫びるというところと、⑦のどういう我欲か、⑧のどうして出てきたのか、⑨の我欲を心から除外する、は難しいです。心から詫びることができたなら、教義の通り本当にシャワーを浴びた後のような状態に自分がなります。心に苦悩なく優しく素直で謙虚になります。許された自分を感じます。このような経験をしている方は多いと思います。当初、この経験をした方の話は良く聞きました。

  因みに、これを何年も日々、繰り返し実践すれば、後光が射し出して霊道が開いてきます。本当に教祖の言う通りなのです。しかし、この開き方の霊道は、かなり危険なものとなっていきます。

 ③反省を実践するとどのような現象が自分に起きるのか

  以下、過去を思い出して、私の体験上ですが、わかりやすいものを記述します。(魔の攻撃に関しては、魔を引き寄せる可能性を配慮して、具体的な記述は避けます)

一、教義の通り反省を繰り返せば、心の曇りが消えだしてくるように思います。実際、意識の表面では、消えているように思います。何故なら、霊道現象が起きるからです。では何故心の曇りが取れていくのかということになります。ここが問題ですが、後述します。

二、心の曇りが取れていけば、我欲に流されなくなってきます。禁欲的な生活になってきます。心の曇りを取る相乗効果が現れます。鏡から汚れが随分となくなってくるのです。心に両極端さがなくなってきて、八正道により中道の実践をしているように思えてきます。

三、自分を常に第三者の立場から視られるようになってきます。自分の心が自分を常に監視しているような状態です。ですから、少し心が揺らいだ時や我欲が出ればその場で気づくようになり、その場で軌道修正をかけられます。軌道修正とは、誤った心を出さないように努力することです。常に悟りを追い求めて来られた方は、こういう感覚は理解できると思います。

四、無口になって落ち着いてきます。よくしゃべっていた自分がおとなしい自分になってきます。これは多分、常時自分の心を見つめているからだと思います。人から雰囲気が変わったと言われます。

五、なんともいえない不安が襲うようになります。心はきれいになっていっているのに不安が出てきます。これは、ほんの些細な事でも察知してしまうようになるからです。自分の心が揺らぐということに対してはまだいいのですが、相手に対して罪を犯しているという自己処罰感が出てきます。その場で心の中で相手や仏に詫びるのです。そしてどうしてそのような心が出てきたのかが課題になります。

六、何故か、以前の自分より心が弱くなった自分のように思えます。これは別の見方をすれば、豊かな心ではない自分を感じているということです。誤った思いが出ていないか、凄く繊細になります。しかし、法を広める思いは強いのです。それと対照的に活動以外の愛の思いが積極的に出ているというよりは、消極的で隠れていくような感じです。心はきれいになっていくのですが、愛心が縮小しているような感じがします。我欲が出ているか否か、愛を与えているか否かの思いが付きまといます。これが消極的な繊細な心にしてしまっているのです。

七、きれいになっている心を「持続させている」というような感じがします。どうも自然体ではなく、随時において持続させようとしている心があります。客観視はほとんど随時においてしています。何故か、自然ではない心を感じてしまうのです。因みに相手の思いが手に取るように解ってきます。離れた知らない人でも相談されれば、その人のことが解ってきます。

八、他人に対する慈悲の思いではなく、心を傷つけてはいけないという守り、消極的な自分がいるのを感じます。積極的に前に出るという心もあるのですが反面、極度の気遣いもあるのです。

九、霊道現象の時期が近づいてくると、極端に悪霊悪魔が攻撃をしてきます。もの凄い攻撃です。毎晩やってきます。この時期はまだ完全に心の曇りが取れていない状態です。特に残っている汚れの部分を狙ってきます。心で防がなければならないのですが、非情に厳しい戦いになります。

一〇、霊道は開かない方が良いという結論になります。というか、恐ろしい程、強い魔が日々やってきますので、肉体も疲れ果て限界がきます。仕事に差し障りが出てきます。確か、教祖は1990年代中期から霊道禁止令を出していたと思います。物凄い魔の攻撃に一人で立ち向かうのは不可能です。もし完全に開いてしまったら、魔に入り込まれた(完全憑依)のは間違いないと思います。皮肉にも禁止令を守ったから助かっています。この時期に私と同様に霊道を開きかけた方がいました。その方は開く寸前に守護霊から「開きますか、開きませんか」と問われて、「開きません」と答えたそうです。何故なら、「怖かった」ということでした。つまり、教祖は活動会員が霊道を開きかけていることや組織に対する魔の攻撃を知っていたことになります。今開けば、魔に入られるという事を知っていたことになります。

大体これくらいで留めておきます。これを読んで幸福になっていると感じるか、いやちょっとおかしいのではないかと感ずるかです。トータルでみて、良い面、悪い面があるのは仕方ない、不安や弱い自分を感じるのは一時的な通過点と思うか、危険であると思うかです。反省からの自己の中道的な発展(種村注)として悟りに向っているか、悟りではないような気がするかです。現象をみれば悟りではあるようだが、何か不自然さを感じるかです。心の両極端を去り中道に向っているか、否かです。

しかし、教祖は、嘘をついてはいないのです。確かに、最終的な現象は教義の通りになってくるのです(教祖の教義が正しいと認めている訳ではないですよ)。

種村注:中道的発展とは中道からの発展と呼ばれている。左右の両極端を離れて、それを否定し、中道に入ってこそ発展できるという思想。左右の両極端とは、たとえば自己否定と他者否定です。両方ともに偏りがあることに気が付き否定すると、自分も相手もともに生かされていて縁により何かを気付かせてくださるために出現した出会いであると捉えることができる。そこから建設的な人間関係や人生の発展が起きる。これは中道的発展である。〉
 
④霊道を選択するのは、我欲の判断が多い

  その後、私はどうなったかというと、見事に悟って抜苦与楽しながら法を広めていったならおめでたい話しですが、逆の見事で、転落していったのです。守護霊の判断(沈黙)は正しかったと思っています。

私の場合、開くか否かは問われませんでした。開かない意思や迷いがあったからです。それは、仕事をして生きなければならないという人生を見ていたからです。その時には転落するということは、思っていなかったのですが、守護霊には見えていたでしょう。もし開いていたら魔の餌食になって一生を棒に振っていたでしょう。

たとえ転落という言葉で表わされる事態になったとしても何度でもやり直しはききます。ちなみに完全憑依された方もいますが、この場合は何年、何十年と仕事等の復帰は難しいと思われます(全てではないでしょうが)。私にも相談はありましたが、相談を受けるのを辞退したことを覚えています。

最後に霊道を選択された時に霊道を開くのは、我欲の判断が多いと思われます。そこには、教義でいう悟りの出発点(阿羅漢向)が目の前に差し掛かってきています。教義では確か「霊界との同通」(反省が進んだ状態での霊道)ということであったと思います。それを本人は自覚しています。教義で説かれていることと現象として体験することが一致しているからです。

この時に、開くかどうかの判断は実は、識(表面意識)の部分での判断になっていると思います。つまり、自然に完全に開けてくるのではなく、判断を要するのです。ここで、現実を無視して思い切って開くということは、何かしらの欲があると思った方が良いと思います。私の場合はどちらかといえば、守護霊に霊道を開かない方に導かれていたような気がします。つまり、守護霊は見守りつつ主体的に判断させたのだと思います。魔に囲まれた環境では、ほとんどの場合は、開かないほうが無難だと思いますがどうでしょうか。


(参考ブログ記事)洗脳解除のための本