2013年10月17日木曜日

(投稿)K会と思慧することへの恐怖


思慧と洗脳と信仰と

 

結論への誘導



 私がK会を離れてしばらくたちます。時折、自分にとってK会とは何だったのか、ということを考えることがあります。今思うと、K会の活動を通して、自分の心の中に数多くの闇をつくってしまったように感じます。特に、信仰の裏に「思慧することに対する恐怖」を持ってしまったということが、私自身にとって最もマイナスなことでした。
 K会も、はじめの頃は、教典や思想を糧に、思慧を深めていく中で「悟り」を追求していくというスタイルでした。それはそれで大変に素晴らしいことであったと思っています。
 
 しかし、時がたつにつれ、「悟り」を求めるスタイルから、「植福と伝道」に重点がおかれるにつれ、「思慧」に対する重要性は薄れていってしまいました。

   もちろん、K会では「思慧」自体は否定されている訳ではないでしょう。形上は、「植福」と「伝道」を通じて「悟り」を深めていくということであるのでしょうから。問題なのは、最終的に「植福」と「伝道」に結びつけていくために「思慧」を深めていく、というところにあると思います。まず「結論ありき」なのです。セミナーや講演会に参加しても、結局のところ、「植福」と「伝道」の推進へと結びついていきます。「思慧」を深めた結果、自分なりに一定の方向性を持った結論に達するのではなく、ある一定の方向(植福と伝道)に向かっていくために「思慧」を深めていく、ということでありましょう。K会在籍中に、数多くのセミナーや講演会に参加しましたが、全部が全部、結果的に「植福」と「伝道」へ結びける内容のものでした。

 「植福」や「伝道」が本当に大切なものであるならば、深く「思慧」を続けた結果、自らの悟りが深まっていく中で「植福」や「伝道」の大切さを心から納得し、自ら進んでその実践を行い、その得られた結果について心からの満足感と幸福感に満たされるでしょう。真心からの行為は、必ず人から人へと伝わっていくからです。
  私は、K会に流れに沿った活動をしていくなかで、一抹の不安を感じました。自分なりに「思慧」を深めていけばいくほど、数多くの矛盾にぶつかっていきました。私はそれを、信仰の足りなさゆえに感じるものだと思い、「信仰について深く考えることに対する恐怖」を無意識のうちに持ってしまいました。そして他のK会員と同様、「まず結論ありきの思慧」を深めていきました。深めていったというよりは、自分自身を洗脳していったという言葉が適切かもしれません。決して深くは考えていないのですから。むしろ、反射的に「植福」と「伝道」が大切さを感じる方向に自己洗脳していきました。そして、セミナーや講演会は、その「植福」と「伝道」の大切さを自己確認するための行事でもありました。それで、自分自身は、「やっぱり間違っていなかった。自分にとって大切なものは何なのか。改めて確認することができた。」という満足感と、心の中にわき上がっては必死に押さえつけている「不安」をなだめることができたという安心感に満たされました。
 
3者の目で見る習慣
  しかし、K会の教えにあるように、自分の心に嘘をつき続けることはできません。やはり、自分の心には正直にあるべきだと思い、しばらくの間、K会の活動から身を引くことにし、自分なりの「思慧」を深めていきました。少し時間がかかりましたが、徐々に自分自身を取り戻すとともに、だいぶ「洗脳」に近い状態でいたことに遅まきながら気づくことができました。

 
 私は昔の教学スタイルが身についていたので、自分の頭で考え、心で感じるという「自灯明」的なやりかたを大切にしてきました。ですから、最終的にK会の「洗脳」的なやり方に流されずに済んだと思っています。「どんなときでも己を信じ、己を守ってくれる見えざる存在を信じ、大いなる存在を信じること」これがK会の初期のころに教わったことでした。皮肉なことですが、K会初期のころの教えを愚鈍に貫いてきたことが、自らを救うことになろうとは、と今更ながらに思っています。
  K会に在籍していたときの昔の仲間たちは、私が何か悪いモノに取り憑かれて、道を踏み外してしまったと思っているでしょう。そして私のことを永遠に救われない気の毒な存在と思っていると思います。私も、自分の考えは絶対的に正しいとは思っていません。私の出した結論が正しいかどうかは、さらに時代が下らないとわからないことなのかもしれません。ただ、彼らと唯一違うところは、私は自分の心を常に客観的に、第三者的に見るという努力をし続けてきたということです。自分という視点を極力離れてみないと、正しさというものは、なかなかわかるものではありません。  
  第三者の目で見るという修行方法は、K会の初期の頃の教えにすでにあったものでした。一度は今のような活動スタイルの流れに流されかけましたが、今のK会ではほとんど無視されている「八正道」を主体とした仏教的な修行スタイルを続けてきたことは、決して間違いではなかったと痛切に感じています。人間というものは、自分自身に厳しさを持たないと、どうしても甘き方向、易き方向に流されてしまいます。そしていざというときに、自分の大切な心を守ることができなくなってしまいます。K会の最近の活動の中にも、数多くの「すり替え」を感じます。そうしたことがすでに見えなくなっているということが、K会の意識レベルの低下の表れでもあると感じます。
  今の状況を素直に反省し、初期の頃に立ち返って、一からやり直すという素直な意識さえあれば、K会も再度繁栄の機会もあるかもしれません。K会の初期のころの素晴らしさを知っているだけに、再度原点に立ち返って、人類の幸福のために活動していただきたい。そう切に願います。


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