2013年8月8日木曜日

幸福の科学の植福を考える⑱・・・布施の穢れ


浄化できないと憑りつかれる


信仰強化の真の狙い

 OR(大川隆法)氏は教団初期の経営は、ある経営コンサルタントの忠告に従っていました。その経営コンサルタントは言いました。
 

 「宗教団体が広がらないのは、信者から布施の深堀りをするからです。相当数の信者層ができる前に、集まった信者からお金の深堀をすると発展が止まります。広く浅くお金を集める。これが教団発展の秘訣です。」

  この方針に従って、初期の頃は高額商品や布施集めは控え、OR氏がストイックに労働し、高品質の商品とサービスを提供することに努めました。その結果、信者とファンのすそ野が拡大していったのです。

   しかし、その後、実質的な活動信者は増えないにもかかわらず、OR氏の事業欲は拡張し続けました。その結果、明らかに信者の深掘りが恒常化していったのです。活動信者一人当たりの金銭負担がものすごく重くなりました。

  「どこまで布施を求められ続けるのだろうか。きりがない。」「もうこれ以上続けたら生活が持たない。」と思って活動から身をひく信者も増えていきました。

  それでも学園建設、大学建設、全世界への支部展開と精舎建設、政党の創設と選挙、映画の作成上映と、多額の資金を必要とする事業は増加する一途です。必然的に集金目標額は上がり続けます。しかしそれを支える信者数は横ばいかむしろ減少していきます。このジレンマを解決して集金目標を達成していくには、信者の信仰心を強くする以外にありません。

 こうして熱烈な信仰心を持つように信仰指導がなされるようになりました。OR氏が地球神から宇宙の根本仏へと、更にはそれ以上の存在と宣伝されるようになったのには、そういう背景があります。エル・カンターレを偉大化することで教団の求心力を高め、布施を集めやすくする。そういう隠れた狙いがあったとみると、K会の異常な信仰教育や集金活動は合理的に説明できるのではないでしょうか。

 
 
 


欲念浄化のすべがない

  K会の布施は、全て教祖であるOR氏への布施であると見なされています。布施の受け手である「受者」はK会の職員でも教団でもなく、教祖一人なのです。エル・カンターレへの布施というのは、そういう意味です。だからOR氏は教団のお金をすべて自分のものであると考えています。

  ここから大きな問題が生まれてきます。施者である信者に「見返りを求める気持ち」を巧みに煽ることで効率的な洗脳集金体制を創ってきたために、見返りを求める執着の念という「汚れ」が増大していったのです。その汚れは当然OR氏に集まります。布施の唯一の受者である教祖に、お金だけでなく汚れ(信者の欲念)も集中するのです。

  私はOR氏の前の奥様から、「教団の総資産が3000億円を超えたあたりから、OR氏は明らかにおかしくなりだした」と伺ったことがあります。私は、そのあたりで教祖は信者の汚れを受けきれなくなり、その汚れに染まって転落していったのではないかと思います。これは集合念である信者の欲望の念を吸い込んでしまい、自分がそれに呑み込まれたという意味です。


 いくら対価性がないのが布施だから見返りを求めてはいけないと建前で言っても、実際には見返りの制度化を図っている以上、信者の欲念が布施には付着しています。それが一定レベルを超えると、受者が受け止めきれなくなって、その欲念に憑依され支配されるようになるのだと思います。

  もし教祖が、「頂いたお布施は神への捧げものであって自分に与えられたものではない」と考え、神への感謝の儀式をし、そのうえで神から預かった布施を神と信者のために使うのならば、汚れは浄化され教祖が汚れを受けなくてすみます。


 しかし、K会ではそうした考えは受け付けないので、汚れを浄化するすべがありません。その結果、教祖は汚れを受け続け、自分の器以上に受けて欲念に飲み込まれ支配されるようになったのです。欲望の集合想念に憑りつかれた教祖の誕生です。これは念の法則として最も警戒しなければならないことです。執着を断つという布施を推進しながら、施者である信者も受者である教祖も欲望の想念に染まっていく姿は、宗教として最も悲しい姿だと思います。

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