2013年8月7日水曜日

幸福の科学の植福を考える⑰・・・善意のゆくへ


執着と与える愛

 
天の蔵と執着

 私はこれまで、K(幸福の科学)では布施を集めるために、見返りがあの世で10倍の富となることを強調したり、名誉や重要感、祝福などの現実的な見返りの制度化が図られていることを述べてきました。

 すると信者は、見返りを求めないのが布施であることを知りながら、心は見返りを求める欲に縛られていくことになります。見返りも、それがこの世的なものかあの世的な見返りかで、意味が異なってきます。
 

 天の蔵に徳を積むということがよくいわれます。これは、この世で教祖の捧げる布施はあの世で10倍の豊かさとなって与えられるという意味と同じです。これはこの世的な執着ではありません。

 あの世で豊かになるなら、この世で貧しくとも、このお金を尊いもののために差し出そうという思いは、やはり尊い部分が多いと思います。

 しかし、あの世に投資するような気持ちなら、その尊さは損なわれるはずです。
 

 では、見返りの制度化はどうでしょうか。教団内で得られる名声・名誉、自己重要感、祝福、それらを得たいという気持ちなら、この世的なものです。お金をそれと交換したわけです。これは取引に近くなり、尊さは激減します。

 布施をして、結果としてそうしたものが与えられ、それを淡々と受ける。それなら執着ではありません。しかし、人間の心は弱いものです。教団から与えられる見返りに、信者はいつしか心をつかまれていきます。執着の増大です。
 

布施の心と勧進の心

 宗教において布施の功徳とは、差し出す人の心境できまります。そのために執着を去った清らかな心、信仰心から生まれた深い感謝の気持ち、純粋に尊いもののために差し出したいという心、人の幸せのために使ってほしいという愛の気持ち、そうした心からなされた布施は、尊いものです。その心を起こしたことが、その方の功徳となり、心の平安、喜び、そして来世の幸福の因となります。

 
 それには勧める(勧進する)側、つまり布施を受け取る側が清らかでなければなりません。布施を勧める側の純粋な思いが純粋な布施の心を呼び起こし、目標達成や自己保身のためにお金を集めたいという思いは、見返りを求める執着の布施を呼び込むはずです。

 私が職員の時代は、勧進する側の想いの大切さを意識していました。できるだけ信者さんが清らかな心境で布施してくださるようにと意識して話しました。それでも、多くの布施が集まったときには、得られた結果を誇る気持ちがありました。

 職員時代は勧進する側だという気持ちが強く、出すことにおいては非常に少なかったと思います。しかし在家になったら、できるだけ布施をしたいという気持ちに切り替わりました。あまり多額の布施をできないことが苦しみでした。そしてその時にお布施をしたいのにできない苦しみを信者が抱いていることを知りました。

 

善意の布施のゆくえ

 布施ができない苦しみは、もっとお役に立ちたいのに立てないという苦しみです。そこから人々は繁栄を願うようになります。そして繁栄系の祈願や研修をこぞって受けるのです。受けるに際しては数万円から数十万円の布施を研修祈願費として支払います。そしてもし経済的な繁栄があれば、更に布施をするのです。手持ちのお金はなくなります。もし繁栄できなければ、研修と祈願でさらにお金が無くなります。いずれにしてもお金は信者から教団へと流れ続けるのです。
 

 善意の純粋な布施もあると思います。その布施をした方は、その心に応じたよき報いを受けると信じたいと思います。

 しかし、仏陀であると偽って受け取られた布施は、本当によきものを与えてくれるのでしょうか。偽のダイヤを「これは本物のダイヤモンドです」という言葉を信じてお金を支払っても、得られるのは偽物の石です。

 
 ある人はこう例えました。老いた母親を喜ばせたいと思って、娘が母にお金をあげたら、母親はそのお金を孫に上げてしまった。こんなことならあげるのじゃなかったと思ったが、どう使うかは受けての責任で、与えての責任ではない。だから布施をした信者が純粋な思いでした布施は、受け手が間違った使い方をしても、布施した人の責任ではないと。

 しかし、母親と思った人が、実は魔女が化けた姿だったとしたらどうでしょうか。母のためにと思う純粋な心は尊いとしても、魔女にだましとられてしまった事を無念に思うでしょう。そして魔女が勢力拡張と自分の身を飾るためにそのお金を使うことを、さらに無念の思いで見るのではないでしょうか。

 そこからは布施を返還してもらいたいという思いが、当然湧いてくると思います。


2 件のコメント:

  1. 詐欺師が法律を利用して知らない人をだますように

    悪魔は聖書や仏典を、また有名な神の名を聖者の名を使ってだまします。

    カルトの悪魔は人の善意を利用して操るのです。

    正しい事だから、いい事だから、神様のためだから、

    と断れないようにして理屈で つけこんでくるのです。

    だから、こういう連中には正しい、正しくないで

    応戦するのではなく自分の心を見て、好きか嫌いかで決める

    のがいいのです。

    また悪魔は自分は正しい と今でもずーっと信じてるから、

    反省しないから 地獄に落ちたままなのです。

    だから正しい正しくないで決めるのではなく、

    自分の心で好き嫌いの感情で

    決めた方がカルトに引っ掛からなくてすむのです。

    相手も「嫌いだから」と断られればそれ以上突っ込めなくなります。

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    1. 「悪魔は自分は正しいと今でもずーっと信じているから、反省しないから、地獄に堕ちたままなのです」は名言だと思います。
      正しさの議論ではなく、好き嫌いで判断せよというのも、一つの見識かもしれませんね。
      貴重なご意見を、ありがとうございます。

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