2013年8月2日金曜日

日本神道について考える③・・・自己超越の可能性


神道が秘めた可能性


至高体験

 「至高体験」というものがあります。
マズローの欲求段階説では、第5段階の上にある「自己超越」の段階でもあろうかと思います。
 この「至高体験」というものは、比較的多くの人が体験しておられることを聞いておりますし、その内容もさまざまであるということも聞いております。これは反省行や座禅行などによる、いわゆる「修行」で得られることもありますし、何気ない日常生活において得られることもあるようです。
 私の経験した「至高体験」というものは、いわゆる「反省行」において、深く心を見つめている最中に得られたものでした。言葉で表すと、以下のようなものでした。

まずは、心の奥から深い幸福感と感謝の念いが湧き上がってきました。いてもたってもいられないほどの幸福感と感謝の念いでした。そして、全ての人やこの世にあるものは一体であるという「感覚」でした。そして、神は確かに存在しているという強い確信と、私たちは、私たちを創られた神と同じもので創られている。つまり、神と私たちは本質において同じであるという「感覚」でした。

これは書籍を読んでわかったというように、知識として理解した、ということではなく、まさしく「感覚」としてわかった、理解した。ということです。


世界の見え方が変わる


「至高体験」を経験した後、この世の世界がとても透明感にあふれている存在に見えました。だいたい一週間程度で普段の状態に戻ってしまいましたが、人生の中で幾度とは味わえない貴重な体験をしたと思います。
 座禅行などによって心を見つめる修行をしていると、自分が自然と一体になった体験をするというようなことを聞いたことがあります。これも「至高体験」といえるのではないかと思います。
 「至高体験」いわゆる「自己超越」の段階というのは、「自我という自分の殻を破って、さらに大きな存在と一体となる段階である」といえるのではないでしょうか。自分が他と独立した存在ではなく、実は全てはつながっている存在であり、さらに自己を超えた大いなる存在とつながっている存在であるということを、「感覚的に知り得る」ということであろうかと思います。

 これは、単に知識では理解しえないことで、自分を深く見つめる「修身」を通して得られるものであると思います。もちろん、具体的な「修身」とはいかないまでも、何らかの形で自己を深く見つめる、もしくは周りに対する感謝の念いを深めていくといったことなどでも同様の境地に達することができるのではないかと思います。


日本神道の可能性


 
 そうしてみると、神道のように、心の清らかさを深めていくといったことのなかにも、このような「自己超越」の段階にまで達することが可能ではないかと思えるのです。心を清らかにするということは、自らの心を見つめていかなければなりません。さらに神の光のパイプ役であることを真に理解するには、この「自己超越」の段階に達することが不可欠なのではないかと思われるのです。

 結果として、日本神道における、心の清らかさを求めるということが「修身」と定義づけられるものであるとするならば、それは座禅行と同様に「自己超越」の段階に達することを可能にするのではないかと思われます。
 現在の神道においては、御利益的、形式的な方向に流れているので、到底そのような見方をするのは困難ですが、本質をたどれば、このような見方もできるのではないのか、ということです。

 日本神道というものは、「教えというものが存在しないから、中身のない宗教だ」というのは、あまりにも短絡的な見方で、その本質にながれているものを深く探っていくと、実は奥の深い大いなる可能性を秘めた宗教であるという見方もできるのではないでしょうか。
 日本の古来からある伝統的な宗教が、真に日本人の精神性を高め、これからの日本の大いなる発展の原動力となっていくことを強く望んでいます。日本神道の神々の力、日本神道の本来持っている力というものが、あまねく日本中に広まっていくことを願ってやみません。

0 件のコメント:

コメントを投稿