2013年3月21日木曜日

(投稿)洗脳解除へ 脱会者からのメッセージ 1

 なぜ、K会を信じると不幸になるのか

(投稿)
 

1.不幸のはじまり 救世活動から数値上げ活動へ

 
私は20年以上の会員でしたが脱会した者です。

過去の自分を振り返ってみると、K会に入会する前は自分自身に自信があったと思います。日々忙しく仕事に追われ、一生懸命に努力して自分の人生を素晴らしいものにしていこうという夢や希望に溢れていました。仕事上で問題や苦難が起きても職場の方々と協力し、一人で苦悩することはなく乗越えられていたと思います。職場では人間関係は良かったのです。

振り返ってみれば、順調にいっていた企業人としての人生が変わりだしたのは、K会に入信してからです。次々と不幸が起こり始めたのは、活動を始めて数年後、K会の方向性が変わりだしてからだと思います。初期の活動の中心は伝道で、仏陀再誕を告げ知らせ、仏陀の法を広めていくことに力を注いでいました。伝道は、「二人ではなく、一人で行け」というのが悟りを上げる為の修行であった為、何処へでも一人で本を持って伝道しに行ったのを覚えています。身内、友人、知人、勤務先、商店、企業、神社仏閣、教会…等様々です。

初期の活動において各信者さんは、純粋で非情に信仰心があつく、熱心だったのです。信者のみなさんは笑顔が非情に素晴らしく、活き活きとして輝いていました。この頃は数値を強制されておらず自主性の方が優先されていたと思います。

しかし、しばらくして伝道、行事、献本、植福(4本柱)の目標数を強制しだしてから、K会は悪い方へと徐々に変わっていったと思います。それが酷くなって来だしたのが、「方便の時代は終わった」辺りからだと思います。1994年から1997年くらいに掛けてだと思います。その辺りから、当初の純粋な活動は消えて、信者の活動は、全て数値で評価されていくようになりました

信者の純粋な信仰心は変質し、「『菩薩』は無償の愛で影響力を及ぼし人々を救済していく者」から転じて「数値実績を上げる人」へと変わっていったのです。仏の思いは、具体性を持った「目標数値」に表わされました。詳しくは覚えていませんが、八正道の正念の対象は具体的な目標だったと思います。今思えば、都合良く教えを利用しています。

本人の悟りの段階とは関係なく強制的に高い数値を要求されますから、自殺行為にも等しい無茶な信仰告白をするようになっていきます。それは、決して本来の意味の不借身命ではありません。しかし、仏を信ずるが故に、菩薩を目指すが故に、無理をしてしまうのです。

「智慧をもって愛を与えよ」と言いながら、信者個々人の悟りの状態に応じた活動ではなくなります。無条件に毎月の客観的な数値を問われますから、宗教的な救世活動ではなく数値を上げる為の活動を強いられ、企業の営業と同様な活動になってしまうのです。法を紹介し内容を徐々に理解して頂くより、まず入会する事を優先する会の強い方針です。

その為、献本して後、早期に入会を繰り返し勧める為に人間関係が急激に悪化していきます。つまり、伝道する相手の幸福より目先の数値の方を優先してしまう行為になってしまうのです。

この頃より、私に次々と不幸が降りてくることになるのです。今考えてみれば、無理な伝道で自分から人が離れていったのです。

K会に苦悩を相談しても、自分に起こることは全て自己責任であり、個々の修行課題なので自分で克服せよと教えます。トータルにみれば確かにそうです。でもこの教えを個人の修行論だけに当てはめて強調するから人を裁いて突き放すようになるのです。

例えば、「私が手を差し出せば、あの方の修行を奪うことになる」とか「それは、仏より与えられたあなたの修行課題」とか「仏があなたに降ろされた試練です。あなたは仏に愛されているのです。」、「まず御本尊を頂いた方がよい」、「○○研修を受けた方がよい」などという言葉はよく耳にしました。

又、K会の祈願は他力ですが修行論としても捉えます。祈願は必ず奨めます。しかし、徐々にお金がもたなくなり、苦悩の上に経済苦になっていきます。何故なら、祈願や研修では現実は変わらず、現状はもっとひどくなっていくからです。

そして、祈願が効かないのは、100%の信仰心ではないからだと言います。修行論として祈願が効いた方の実例を挙げ、100%の信仰心を求めます。祈願の効果の度合いを実にうまく本人の修行論に誘導していきます。

又、自己責任の教えは、K会が責任逃れをする良い理由になっていると思います。K会に悩みを相談しても「やっかいなものには関わりたくない」というような印象をいつも受けていました。

K会が積極的に関わるのは主にお金です。高額なお布施をする者には、見れば判りますが態度が違います。拍手喝采してみんなの前で持ち上げます。教祖の講演が有る会場の座る席もお金で決まります。これは宗教として、お布施の意味合いが違っているからです。人格が立派な人でもお金が無い方は、遠慮して秘かにしているしかありません。

又、救いを求めて来た人を疎んで相手にしません。だから会から人が離れていくのです。

私がK会に望んでいたのは、共に悩んで励まし合う姿、支えあう愛の姿です。しかし、K会の支部は個人の悩みや問題に深く関わろうとはしません。

要は、K会は個人の修行を対象とした高額の集金所であり、他人に対する愛はないのです。一言で言えば、救いがないのです。これでは救済を主体とする宗教団体とは、もはやいえないと思います。
 

2.捻じ曲がった洗脳の法:法による救済から思考停止、仏依存症の法へ

 

自分を振り返って考えると、信者の心は仏とは繋がっているけれど、結果的にそれ以外の方とは繋がっていないことは行為に現われています。

「与える愛」の実践を説いていますが、個々人においては自己責任を強く求められるので修行論が優先されます。「与える愛」と「修行」が分離されるのです。そもそも人を許し無償の愛を施していく菩薩行は、無私なる「与える愛」の悟りへと向っていく修行であるのにも関わらず、伝道等の数値によって測られる為に、法が本来の修行と融合されず法と数値が融合し(意図的)、これはこれ、あれはあれ、というようになるのです。

「与える愛」の本来の法が、思いと行為において全く違う形に変わるのです。

  仏への依存度を高めるための修行は、思考停止へと向う

 初期の頃に教えられた法による救済である「与える愛」の行為は、数字を上げるという行為に変わっており、個々人の苦しみに対しては「自己責任だ」と突き放して済ませます。

苦を脱するには、個人がストレートに仏の力を得る100%の信仰心になることを指導します。苦しんでいる方をどうすれば救えるだろうかと共に悩んで解決策を見出すというようなものではなく、仏と自分との関係による修行になっています。自己責任と修行だけでみれば、自分は自分と仏、他人は他人と仏という他人に対する割り切りが内在してくるのです。全て仏が解決してくれるという仏への完全な依存体質になっていきます。その為に「何も考えず仏を信じてついてきなさい」と教えます。これは非常に危険だと思います。

同胞や他人への愛の思いが失われた自己愛を中心とした思考停止の状態に徐々に入っていきます。ですから同胞が苦しんでいても愛の行為は無いのです。相談者の心を受け入れることはなく、冷たく機械的に上目線で法を使ってものを言い、己の信仰心が足らないと言って突き放します

これは悩んでいる本人を救わずに、結果的に数値につなげる為かとも思われます(K会に人を救う力はないのだが)。仏の役に立つ行為(実績)、布施する金銭(実績)が足らないから不幸になるのだ」と、苦しみの渦中にいる人を裁くのです。逆に、「仏のお役に立てば幸福を与えられる」と教えるのです。お役に立つのは数値、特にお金です。信者は仏に全て救いを求めますから、K会の企画する様々な高額商品を購入したりお布施をするのです。洗脳されている時は、これが理解できません。
 
  会すれば自己愛性の人格は徐々に薄れていく

私は全て仏の理想実現の為に行動し、生きた根本仏という幻想の威光によって、自分が救世の主体になっていました。他人に対して最大の愛の行為をしていると錯覚している自分がいました。

振り返れば、自分は裁き体質の人間であったことが良く解ります。他人が苦悩していてもその人の苦しい心を受容するより法を強制していたと思います。

、仏への過度な依存での救いを求め、仏への依存度を強める為の修行である為、自己愛性人格障害の状態に自分が陥っていたと思います。そこには、自分が救われたい、自分が救っていく、自分が菩薩になっていくという自分のことが中心の思いや、仏弟子というプライド、高慢さが出ていたと思います。その反面、自分の自信が薄れていくのです。それは仏に依存しているから自分の力で何かを強いられる場面に立たされた時に(全てではないが)大きい不安になるのです。

脱会をしてK会の「仏」から離れると、こういった感情が消えていきます。仏をバックにした自分の尊大さは消え、他人の気持ちを親身に理解しようという思いが出てきます。信仰上の我欲ではなく、神より頂いた本当の自分の心を尊び、愛する温かい気持ちが出てきます

以上のことが違うというのなら、数十年に渡ってK会で学び修行をし、私は悟りを開いていると断言できる方が何人いるでしょう。それどころか不幸になった人の話しが多く聞こえてきます。

  依存では苦悩から抜け出せず、状況は悪化していく

個人の努力する行為や他の人への愛の行為よりも「仏への依存」でもって解決しようとします。だから苦から抜け出すことは難しいのです。しかし、その方が実績を上げるうえにおいて都合が良いのだと思います。

例えば、私の経験上、就職が直ぐに決まらない場合、祈願や研修、活動をした方が速いと言われます。しかし、いくらそれらをしても決まらないものは決まりません。それよりもそのようなものに頼って多くの時間とお金を浪費するより、より多く応募して、より多くアピールした方が決まります。その方法を親身になって具体的に教えて頂く方が、実際にはありがたいのです。(K会にはこの愛の行為が無い)。

実際に、祈願、研修を受け活動を頑張っても決まりません。時間が過ぎるだけです。

又、悩んでいる本人の心は速く就職したいという思いです。何故なら経済的に苦しくなるからです。わらをもすがるその思いが故にうまく誘導されれば、祈願や研修に手を出してしまうのです。これは洗脳の故に選択することなのです。会の方はその分実績は上がります。

多くの時間やお金を浪費して報われない時の決まり文句は、たった一言、「100%でない信仰心だから」と言われます。結局は、時間とお金の浪費をし、益々経済苦になっただけなのです。

今の自分からその時の自分をみれば、まず考え方が狂っていたと思います。仏にすがって一躍解決できるのなら、これほど楽なことはありません。

しかし、個人の努力を投入する方向性が違っていますから、よくなるはずはありません。真の神は、私の必死の努力を見られるでしょう。その上での純粋なる神への願い、救いだと思います。


  仏依存では、お金持ちが有利な信仰になる


苦悩の中にあって自分の苦しい心を誰かに解って欲しいのですが、それさえK会では一度もなかったように思います。又、苦しんで落込んでいる私を、「魔に毒されている」とか「霊障」とか、平気で影口をいわれます。信者は一番救いを求めているのがK会なのに、人として他人の苦悩に対して冷たく無関心で、仏依存を加速させる為のグッズである御本尊や、祈願等にお金を使う解決方法に向けていきます。

この傾向は近年は特にひどく、救いにおいても悟りにおいて、K会ではお金持ちが有利だという結論になるのです。何故ならお金が無い者は、ご法話拝聴や祈願、研修等は受けられないからです。

何にしても普通の一般的な生活をしている者にとって、高額すぎるのです。お金持ちは、K会でいうところの光の磁場のお墓まで用意できるのです。

つまり、救いや悟りの世界も金次第ということなのです。これは、信者の純粋な志を巧妙にすりかえ、信仰上の欲を引き出していく悪魔の指導、誘導の結果だと思います。

しかし、悪魔の知恵は所詮それだけのものだと思います。何故なら、人間には限界があるからです。経済には限界があります。支部にいくとお金の話しばかりで、これ以上お金がもたないという信者の愚痴をよく聞きました。心優しい大黒天信者でさえ、醜くお布施をさせようとする意思に嫌気がさして、やがて休眠したり疑問を覚えて脱会していきます。私が脱会する前でも支部はがらがらの状態でした。

真の仏なら、身分に関係なく、救いや悟りを求める万人に法を説かれるでしょう。又、信者のお布施を被災地の人々のように本当に困っている方々や恵まれない子供たちに使われるでしょう。それこそが、信者が望んでいたことではなかろうか。

無理をしてでもお布施をしてきたのは、救いを求めている人々を救って欲しいと願っていたからではなかろうか。たとえ洗脳されていたとしても、自己において信仰上の我欲がちらついたとしても、布施の精神においては、その心は信者にはあるのです。仏を信ずるが故に、仏に苦悩の人々を救って欲しいと託してきたのです。信者が望んでいるのは高価な建物、偶像、お墓、衣装、時計ではありません

我欲に翻弄されず、そうして頂けるのが仏と信じたからこそ、信者になったのです。K会の信者はそもそも、自分の為ではなく、世の中の幸福の為に役立ちたいと思って入信してきたのです。

振り返ってみれば、K会の信者の布施の精神においても、私は人の心の中に存在する神の心をそこにみるのです。如何なる環境下にあっても、自分の中の神の心は、穢れないのです

(次回に続く)

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