2013年2月7日木曜日

投稿・根本教義「与える愛」の洗脳と落とし穴を検証する(2)

脱会後に「与える愛」の検証を始める

(前回から続く)

2.与える愛の検証

脱会してからも私は、正しいと思っていた教義、特に「与える愛の教え」を実践してきたのに不幸が絶えず、自分の心から愛の心が隠れていった理由を解決しなければならないと思いました。更に心の中に潜んでいる洗脳をクリアしていかなければ、いつ芽を吹くか分りません。それには、自然に受け入れ素晴らしいと思い、疑う事がなかった根本教義「与える愛」について、思考していくことが大切だと思いました。

 1)過去の反省 純粋な信仰から潜在する我欲による信仰へ

・・・脱会後、私は過去を振り返っていきました。
与える愛、言葉自体は正しいが本当に人を愛せていたかといえば、そうでなかった自分がいます。ならば、私は何を愛そうとしていたのだろうか。幻想の中の世界と自分を愛し、幻想の世界から現実を裁いていたのです。

初めて手にした霊言書に、この通りだと思い、もの凄く共感したのが始まりだったのです。そして入会した後は、「仏の為に」「仏の理想実現の為」にと言われ続けて行動してきたと思います。K会の活動が何よりも優先し、自分の心を押さえつけて、無茶なことをした時もありました。
「仏と共に生まれてくるのは、希である。仏は二度と生まれて来ない。だから、今世は仏の理想実現の為に法を広めなければならない。世の人が仏の法によって救われるなら、世界が幸福になるのなら、頑張ろう。
と最初は純粋に思っていたと思います。

1995年から1996年の活動は、特に酷かったと思います。数値至上主義です。支部は数値を上げないと仏のお役に立てていないと言っていました。数値に追われる日々です。その中で、在家信者は数値上げマシンのように扱われたと思います。「経済的な苦悩も表面化」していました。電気、ガスが止められた人、貯金が無くなった人、書籍を買い取らなければ購入目標が達成できないと、書店で全て買い取り、部屋が書籍に囲まれて寝ていた人、毎月、給料全額以上を祈願や支部研修に使った人、借金して御本尊を何体も購入した人など様々に居られたように思います。
これが、本当に正しいのかと思いました。問題が表面化した時に、私が支部から聞いたのは、「仏は組織運営に携わっておらず、全て弟子に任せている」ということでした。今思えば、それもおかしな話だったのですが、当時、仏が実態を知らなかった事に疑問があったのですが、支部説明を信じることにしたのです。

 このような酷い状況の中で、何故に活動をしたのか。仏を信じていたこともありますが、この時によく支部より言われていたのは、「菩薩を目指す」というものです。菩薩の世界は利他の世界です。「伝道が最大の与える愛」だということなのです。人一人の伝道するのは、そう簡単なことではありません。特に会社や得意先は、一歩間違えればたいへんです。不借身命とは、よく言ったものです。当時、私は首になりかけた時も多々ありました

 そうまでしてきた活動ですが、人に愛を与えてきたというよりは、自分を抑圧し苦しい自分を無理やり押さえ込み続けて、数値を達成することばかりに悩んで活動していたと思います。そして、自分を抑圧する心が、他の人に対しても抑圧的になっていたと思います。

しかし、自分は「選ばれたる者」であるという思いがあり、自分たちが仏のお役に立って救っていくのだという思いが会員同士の強い共感、支え合いがあって、過酷な活動を支えていたと思います。これから仏国土が開けていく思いや菩薩を目指すという思い、天変地異を止め人々を救う思いは強かったと思います。
会員との法談で、次元や菩薩の話しをよくしていたと思います。私のような「平凡な者でも仏のお役に立てば、菩薩になって行ける」というのです。又、「会員は死後、天上界が約束されているという保証(霊的救済)」もされています。会員になれば、地獄に落ちる事がほとんどない。だから、伝道して、このままでは、死後地獄に行くであろう唯物論者を伝道して救わなければならない。「地獄界の解消」も仏が強く望まれていることだからと思い、必死で励んだのです。
正に慢心の極地です。幻想の世界の中の、英雄、生まれて来た意味、人生の意義、天使への夢です。
 
 伝道を続けていく中で私は、
「この法がこの人は解らない。仏と共に計画してきているのに、このままでは大変な後悔が待っている。入会してしかるべきなのに解らないのは本人の責任だ。私は一応伝えた。難しい人に付き合っている暇はない。」
というように、寛容性が薄れ、上目線で人を裁くようになりました。
自分では相手を救っている(救済の法を与えている)と思っているのですが、「数値を上げる対象者」とも見ていたと思います。気づかないのです。伝道は「中根」の方を相手にした方が良いという指導もありました。

「目標数値を達成しなければならない。自分は仏陀教団のリーダーなので率先して上げなければならない。他の会員も頑張っているから、負けられない。」   

こういう「競争原理と目標必達からくるプレッシャー」が襲い、本来は救済を主体とするはずが、相手を思いやる愛や優しさ、気遣いより数値を上げる心が強く存在しているのです。そして次第次第に、入会した頃の純粋な「人に対する愛の心」が失われていったように思います。
「この方にどうかこの御法が伝わり、幸福になりますように。この方の守護霊様、御指導を宜しくお願いします。」という心の反面、数値が脳裏に浮かび出したのです。無理にでも相手に献本、伝道し目標を達成することが、結果的にその人と世の中に愛を与えていることになるからです。何故なら、「会員になれば、心に入会日が黄金の文字で刻印され」、仏や天上界の加護のもとに入るからです。
正に人を救っている、最大の与える愛を実践し、菩薩行に励んでいるという思い込みをしている自分がいたのです。
(これ以降の活動記述は省略します)

 2)信仰上の我欲を見出し、認める

 このように過去を振り返っていくと、入会時は「世の中を良くしていこう」という純粋な思いがありました。そして、仏の大儀の為に「与える愛」の最大の実践である「伝道」をしていくことになります。各々の大儀の度合いは、目標数値で表わされ、それを達成することが仏の大儀を実現して行っているということになっていきます。

今世は特別な時代で、私のような「凡人でも仏のお役に立てば、天国は保証され、菩薩になれる」のです。

しかし考えてみれば、おかしなことです。幾つも疑問が浮かんできます。
菩薩が果して、自分が菩薩になる為や天国が保証されることを望んで人を救っているだろうか。
菩薩が、「自分は愛を与えているのだ」と意識しているのだろうか。
無私無欲にて人を助けていくから菩薩ではなかろうか。
菩薩は与えるという上から下への如き意思を持っているはずもないだろう。
菩薩は混じりけがなく、ただ純粋に人の幸せを願い、人を愛しているに違いない。

私は明らかに「信仰上の我欲が有った」のだと思います。このが無理な活動をしていた大きな根本要因になっています。

 3)洗脳のしくみ 純粋な心から行為の結果論へ

最初は世の中の幸福の為に、法を広げたいと思っていましたし、この法で人を幸福へと御導きしたいと純粋に思っていたのは確かです。
しかし、今振り返れば、仏の大儀の為に、菩薩へと向う為に、活動しなければならない、と徐々に思いが変わって行ったのです。
数値に追われ続け、愛というよりむしろ実績を上げる「義務感で布教」していたように思います。それを愛と錯覚して行ったのです。

愛というのは、誰かを愛するという心が先ですが、伝道は「行為の結果」に重きを置かれ、「会員にさえすれば救われる」ということが、愛の行為になっているからです。
つまり、会員になって貰えさえすれば良いのであって、極端に言えば、自分の心は問われません。伝道菩薩制度や○○制度は、ただの実績評価システムです。「伝道数と悟りは関係がない」のです。会社の営業のように、仕事上の義務、ノルマを果たせば良いのです。それどころか、伝道の欲、数値の拘りが出て来るのです。本来の悟りでは無く、実績の高い人間が仏に祝福されるのです。だから、名前、生年月日等を聞いて、相手に入会の事は言わず、黙って会員にしている、勘違いしている人がいるのです。現に、「幽霊会員が多くいる」のです。(教祖はこういう伝道は禁止しているようですが現にそうなっている)

 最初の頃の純粋な思いが、気づかないままに、菩薩になりたいという「自分の欲に摩り替って」行きます。組織は大きな欲で渦巻いていたのでしょう。救世に対する純粋な心から自然に欲を引き出す誘導をし、高尚な志を数値上げに摩り替えていく実に巧妙な「洗脳のしくみ」が出来上がっていたということです。

(次回へ続く)

2 件のコメント:

  1. 2ちゃんねるの使者さんからコメントをいただきましたので、紹介します。

    なるほど、わてが信者になった頃にはこんなリーダーはんが多かったんですが、事情がよおわかりました。

    わてはこの方ほど熱心に伝道せんかったんで助かったのかも知れまへん。わては自論に頑固やったんで伝道せんかったんですわ。「まず相手に教えを納得してもらうのが先やろ。入会する、せんはその次のステップやろ!」思てましたんで、教えの話はしても入会は勧めんかったんだす。せやけど会の方針は「教えを理解したかどおかより、とにかく入会させて縁を付ける事が先決!」でしたナ。わて、この方針には激しく反発しとったんですが、なんせ当時は新米信者。わても救いを求めて入会したんで、最初の内は先輩信者のゆう事を聞くしかおまへんでした。せやけど自分の良心を押し殺した活動やったんで、辛ろおて辛ろおてタマりまへんでしたわ!

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    1. 投稿者さんからのコメントへの返信です

      2ちゃんねるの使者さんへ

      ご返信遅れましてすみません。
      コメントありがとう御座います。いつもブログは楽しく拝見させて頂いております。

      そうなんです。非情に辛くて苦しく、相当自分を殺して押さえつけないとできないのです。
      毎月とんでもない実績を達成しないと、仏を盾にして支部から相当言われますからね。
      つまり、それだけ無茶な信仰告白もしていたのです。
      でも職員は伝道はしないのです。口で裁くだけです。ずるい人々ですね。それは多くの信者は不満だったと思います。
      職員からして、感謝の心が欠落していたのです。
      信者は数値上げの道具です。これは、正に唯物論です。

      仏への信仰心を盾にとってますから、みんな黙って我慢するのです。
      一言だけでも言ったなら、仏への中傷や信仰心の否定など色々に言われます。
      また、活動会員自信もそういう人を、サタン扱いにして、支部から追い出しますから。
      当初から愛が欠落した裁き集団だったのです。

      心の面で、K会の最大の特徴は、愛の欠落と裁き心だと思います。
      結局は、四正道と与える愛が間違っているからだと思います。
      与えているとう意識、与える愛を実践しているという意識だと思います。
      自分の心より仏の心を優先させて、与えるという意識をとり続ければ、自分の愛ある良心を殺し続けた結果、愛が隠れていくのだと思います。
      だから人を愛せなくなるのだと思います。私も他人のことは言えませんが。
      その結果、上から見下して人を裁くのだと思います。自分は仏の代弁者で、菩薩の道を歩む選民ですからね(笑)。

      この度は、当初の本心をコメントして頂いてありがとう御座いました。
      同じく、辛かったということが解って何故か嬉しく感じます。


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