2013年2月5日火曜日

投稿・根本教義「与える愛」の洗脳と落とし穴を検証する(1)


退会そして洗脳解除へ

(紹介)

脱会者の方からの投稿です。
幸福の科学に入っていたときに味わった苦しみ。洗脳解除へと至る血のにじむような苦悩。その過程で、「根本教義」である与える愛の教えの問題点を、はっきりと理解されたというこの投稿は、多くの方々の洗脳解除に役立つ力作であると思います。
3回に分けて掲載させていただきます。

(投稿)

「与える愛」という言葉、この美しい言葉を実践せよという教義は一見して正しく、私自身何ら疑うこともなく受け入れました。そして自分なりに努力し実践して来たように思います。しかし、この抽象的な飛躍された言葉を実践する中にこそ、大きな落とし穴、洗脳が潜んでいたように思います。
愛とは、まず自分を愛することから始めた方が良いと思います。自分の中に与えられている神の心を愛するのです。私は最近つくづく思うのですが、自分の中に在る神の心(本当の自分)を愛せないと、神も他の人も本当には愛せないと思うのです。そう思えるまでには、相当な自己との格闘があり、今後も続いていくでしょう。

1.脱会の詳しい経緯
 1)心と現実の苦悩が襲いかかる日々

私は脱会する1年くらい前から、「自分の心は何処に行ってしまったのだろうか、自分の心、生命とは一体何だろう」と常に不在となった自分の心を、仏にすがり、必死で探し続けました。

そうなった経緯として、最初は現実面の不幸が何重にも襲いかかってきました。会社は追われ、妻(三帰者)にまで陥れられて、仕事や経済全てを失いました。酷いものです。心はズタズタになり、私は必死で祈り、祈願をし、救いを求め、自分が浮び上がるのを待ちました。努力もしました。しかし、1年、2年経っても何の救いも現れず、現実は過酷になって行ったのです。
次第に心が解らなくなり、不安、恐怖、自己卑下、劣等感等、自己の信頼が消えて人間不信になり、現実面の不幸が重なりました。そして、ついに自殺願望まで起こり、非情に危険なところまで追い込まれました。身内にでさえ本音、本心で語る事が怖く、仕事に就いたり、本心を言ったりするのが怖くなっていました。その反面、仏弟子というプライドが邪魔をして、自分を良く見せようとしてしまうのです。

いくら書籍を読んでも反省して考えても現実と心を克服する答えは見つからず、時には、「信仰心ある者が、何でこんなに次々と不幸が襲うのか、神は守って下さらないのか、ただ見ているだけなら、何の為の信仰か」と自分勝手に神様を裁いたり、時には神様に「私はこれ以上生きていても何の価値の無い人間ですから、どうか命をお引取り下さい」とまで、祈っていたのです。
さらに脱会した後には、仏を裏切ったという不安や恐怖ではなく、「間違った法を広めてしまった」という悔い、これで地獄に行くことになってしまったという恐怖と後悔がありました(これは別の議論になりますが)。
世情は不景気で厳しく、悩んでいる間も現実は進行していきます。様々な要因が重なりあって混沌とし、とうとう耐え切れずもう一層のこと死んだ方が良いという心が強く出始めたのです。(危険だったと思います)
 
霊的に感じた事ですが、自分の周囲から悪霊悪魔に魅入られて行きました。妻の場合は、ある日突然雲隠れする前には、本人と憑依霊が二重写しに見えました。そして、これは変だと思い出した時はもう遅いのです。悪魔の計画は既に実行されているのです。
自分に対しては、心の中心(主に心臓部)に魔の楔を打たれているような感覚がいつもしていました。自分の心の状態が鮮明に見えていないので、原因が全く解らず、これが外せないのです。心臓部にくるのは、私だけでは無く、脱会を勧めた知人にも同じ体験をした方がいました。心が少しでも良くなろうとすれば、この楔が引っ張られるような感覚で、何処からともなく恐怖心、酷い不安感、自分への不信感が襲ってくるのです。心臓部を手で押さえて、苦しい、と耐え難くなるのです。焦燥感なども襲ってきます。正にうつ病です。ズタズタのボロボロ状態です。
このような苦しみの渦中に、何故かK会の教祖の声が響いてきました。これも洗脳の故か悪魔の囁きか、「自分には、仏より与えられた仏と同じ心、仏性が宿っているのだ。自分を卑小なる者と思ってはならない。己が仏性を信ぜよ。」と。その通りだと思い、声の通りに思うことにました。
しかし、いくら自分が仏と同じものを宿していると自分に言い聞かせても、何の解決にもならなかったのです。そう信じようとしたのですが、信じられなかったのです。又、教祖が自分をいまだに観て下っていて、救いを投げかけて下っているのかと、自分はやはり仏を裏切ろうとしているのもしれないと思ったりもしました。しかし、最終的には法が全てであるという心が残っていましたので、「人につかず法につく」という内なる声で判断できたのです。

これは、仏の試練なのか。しかし、信者が成功し、幸福にならなければ、この信仰は広まらない。もしかしたら、この信仰自体が間違っているのではないか。次第にそう思うようになって行ったのです。

 2)ヨブ記との出会い、ヨブの苦悩に共感し、神を裁く

そうした状態が続き、10月くらいでしたか、ふと「ヨブ記」という言葉が浮かんで離れませんでした。家にある聖書を開き、ヨブ記を読みました。
ヨブは誠実に信仰生活を行なってきたのにも関わらず、たいへんな不幸が訪れます。神の試練だったのです。私が思ったのは、ヨブは神を信じるが故に神を裁いたのだと思いました。ヨブは、不安と不信、信仰の納得がいかず、神の声が聞きたかったのだと思いました。私もヨブと同じ気持ちだと思いました。たいへんな試練を降ろされた神はヨブを愛していたのだとも思いました。
K会の教祖は確か、「都合の良い時(幸福な時)だけは神を信じ、都合が悪くなれば(不幸の時)神を信じない、それではいけない。ヨブのようになってはいけない。」と言われていたと思います。確かにそうですが、私はヨブの心の叫びが理解できるように思いました。むしろ、その場にいたらヨブを支えて励ましたくもなりました。そのように苦しんでいる人を教義で切って捨ててしまうより、一緒に涙することが人間愛だと思います。正しさはあっても心の伴わない抽象的な法を主張し、渦中の人を裁くからこそ冷たさを感じるのです。何故なら、「自分もまたヨブと同様な気持ち」であったからです。

 「自分は与える愛ということを心において、職場において、妻に対して実践し、布教活動も実践してきた。しかし、結果は全てを失い不幸になった。仕事を成功させ、会社の体制を整え、必死で働いて会社に貢献しても、結局自分は幸福には成りえなかった。
与える愛とは、与える側は人々を救う為、たとえ自分が不幸になっても、悪人と思えるような人が成功し幸福になっていくなら、賞賛されるべきことなのだろうか。悪を増長させてはいけないというが、自分一人の力ではどうしようもないではないか。イエス様でさえ十字架から救わなかった神とは何であろう。神の加護があってこその与える愛ではないのか。涙の谷を渡るのはいいが、その度に自分の人生は、不幸で終わってしまう。」

私はヨブと同じく信仰において納得がいかず、神を裁きました。「神はただ見ているだけの神なのか、神に正義はないのか。現に自分を陥れた卑劣な人間たちが成功を盗み取り、悠々と暮らしているではないか。信仰者に加護は無く、悪を行なう無信仰者が報われる。これでは神に信仰を持っても意味がない。神とは何であろう。」というような、ねじ曲がった思い、暗黒のような暗い日々が続いて行きました。

ヨブの神は、最後には姿を現し、ヨブに幸福を与えた。しかし、K会の仏は沈黙し、何も与えない。何故か。

 3)神の導き、徐々に出てきた疑問

 しかし、その苦悩のお陰で、私は一つの大きな疑問が出て来始めたのです。
 「教祖は本当に仏なのだろうか。仏ならば、あまりにも不幸が起こり過ぎる。悪霊悪魔の邪魔が常にやってくるのは何故だろう。仏の光の磁場に入っているのなら、一切の悪より守られて、本来は幸福になっていくのではないか。試練は果して、信仰を試す仏の試練なのか。あまりにも仏の力、神の力、信仰者に対する愛と正義が無いではないか。祈願も効かなかった。しかし、これも信仰の未熟さか。」
というような疑問でした。
更に組織に対して、「何故、組織は数値至上で植福ばかり勧めるのか。何故、K会の人は苦悩の中にある人を裁くのか。何故、仏の教団なのに、愛を感じないのか。何故、支部長は朝から晩まで報告を上げる必要があるのか、何故、社会経験のない若い女性が理事長幹部なのか、何故、・・・・。」

更に種村氏が除名され、「あのお方は、シャーリープトラで教祖の右腕ではなかったのか。魔に毒されているのは本当だろうか。何故、今さらに過去世が違っていたのか。何故、週刊誌の記事は見てはいけないのか。」

更に霊的に感ずることで、「何故、祈れば御本尊からではなく、決まって天上より光が降りて来るのか。何故、祈っている時よりも自分で天上界の神に感謝した時の方が、光が降りて来るのか。何故、祈っているのに悪霊の邪魔が入るのか。何故、常に悪魔悪霊が人生の邪魔をするのか、何故、守られないのか。」
その他諸々に疑問あり。
・・・・・おかしいではないか。そのように、自分の頭で考えた私は「支部に行くのを止めた」のです。

4)主なる神、イエス様の救い

そうして、クリスマスの日、ふと心にある事が思い浮かんできました。そういえば、閲覧禁止の関谷氏の書いた書籍が載っていたブログがあったことに気づきました(以前はそれが悪魔の書に見えていた)。私はその書籍をネットで読みました。読み終わった時には、涙が出る思いでした。そしてそのブログに大きく、種村氏の真実を語るという項目があったのです。私は、坦々と理路整然に書かれた種村氏の鋭い奥深い洞察に感動し、ほとんど全て読み込みました。私なりのK会の検証が始まったのです。もちろん、有名アンチ方々の書かれた暴露も読みました。それらによって、教義の問題点やK会の実態が徐々に解って来たのです。(みなさま方に感謝しています)
(・・・長年の仏への信仰が遮り、まだ脱会する決意には至っていなかった。)
この時も私は心がいうことをきかず、厳しい現実面とも相成ってく苦しみの渦中にあり、以前と変わらず苦しんでいたのです。私は心の中で、「愛の神、イエス様、私に愛をお与え下さい。私の苦しみを解って下さい。私を救って下さい。」と初めて仏抜きで神、イエス様に心で叫んでいたのです。
その時に、「何を苦しんでいるのか。あなたの中には、神より与えられた心があるではないか。苦しんでいる自分を愛しているが、何故、あなたの中の神の心を愛そうとしないのか。自分の中の神の心を愛しなさい。自分の中の神の心に感謝をしなさい。」という声なき声が、心の中でしたような気がしたのです。
何とも心地よく、私は、ハッと気がついたのです。「自分の中の神に与えられた心を愛する。感謝する。・・・。そうなのだ、このような私でも愛する事ができるものが在った。それだけならきっとできる。私にも愛する心が存在しているのだ。」と見出しました。その時に、私はイエス様のことが心に浮かんで離れませんでした。私は、天上のイエス様に感謝して、祈り続けました。

 5)脱会へ

この時より、私は日々、自分の中の神より頂いた心を愛し、感謝をしていったのです。
 そうすると、不思議なことに、あれだけ苦しんだ心が随分と安らかになっていったのです。「内なる神の心を愛するが故に、隣人を愛することができる。」「内なる神の心を愛することが、神を愛することである。」「神より頂いた心は全て神に繋がっている・・・。」など、次々と気がつき、目が覚めだして、本来の心が蘇ってきたのです。

そして、脱会を決意したのです。

(次回に続く)

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