2012年10月28日日曜日

自己責任の原則と救済について

幸福の科学の教えに救済力がない理由

1.自己責任の原則の使われ方

幸福の科学には自己責任の原則という中心的な思想があります。あらゆる人生の問題は自分自身が招いているのであるから、それを反省して自分自身を変えていきなさい。それによって運命は変わるのですという教えです。成功も失敗も自己責任の原則により、自らまいた種を自らが刈り取るのだという縁起の理法の必然的な帰結として、自己責任法則が説かれてきました。

私は今まで、この思想は正しいと考えて、受け容れてきました。ところが、人間のタイプによって、同じ教えが異なった使われ方をされがちな事に、最近ようやく気がつきました。

自我の強い攻撃性の高い人は、反省の矛先を相手に求めるのです。「自己責任だから、あなたが反省しなさい。」という具合です。これは「自己責任の原則」の趣旨とは逆で、単に「お前の責任だ。反省しろ」と言っているのにすぎません。
他罰的なタイプの人も、この傾向を持ちやすいようです。

一方、調和型の人、自我がそれほど強くない人は、自分の責任としてすべてを受け止め、相手の責任を問うことをしません。全部自分が悪いのだと考えてしまいます。自己卑下タイプの人も、この考え方をします。

自我の強い人と調和型の人がセットになると、どうなるでしょうか。他罰的な人と自己卑下的な人との組み合わせでも同じです。
自我の強い人は自己責任を振りかざして人の責任を追及し、相手を縛ります。調和タイプの人は、相手に間違いがあっても、全てを文字通り自己責任で捉え、ようとします。
そうなると、自我の強い人が調和型の人を意のままに動かしていくという図式が、しばしば生じます。

調和型の人は一見、自分に責任があると反省することで心の調和を図ろうとしているのですが、相手の悪をのさばらせているという点で、相手の悪に加担してしまっています。幸福の科学の説く自己責任の原則が、それ自体は正しいと思われるのに、実際の使われ方を見た時に大きな弊害を伴うように見えるのは、そうしたときです。

2.愛を妨げる思想への転化

この問題は仏教の根幹にも関わる問題です。自己責任の原則は縁起の理法から導かれるものであり、それ自体間違いではないと思います。これは「あなたの運命はあなたの思いと行いによって作っていくことが出来、修正していくことも出来るのだ」という力強い人間観をもたらす思想だと思います

しかし、これを誤解して、相手に反省を押し付ける言葉として使われたり、また自分の反省をするのはいいが、相手の責任に目をつむる思想に使われると弊害が起き、相手の悪を助長する思想となります
さらに重要なことは、これを他人にむやみに適応すると、「あなたの不幸はあなたの責任であるから、あなたが自分でなんとかすべきだ」ということになり、相手の自己救済を義務として押し付けて、人を助けたいという気持ちを阻害する、言ってみれば愛を妨げる思想にもなりえます人を支援する力に欠けている宗教者は、容易にこの言葉で自分を守ろうとすると思います。
また、もっとこれが進むと「お前の自己責任だ」と言って、相手の責任を追及する言葉として使っているに過ぎない場合もあります。

思想はその運用を間違えると、本来の意味とは正反対の方向へも向かいかねないものであり、自己責任という思想も例外ではありません。

3.自己変革の教え

自己責任の原則とセットとなる教えとして、自己変革の教えがあります。幸福の科学では、教えに照らして自己変革をしようとしていくことが、正しき心の探究の姿勢であると教えられてきました。特に初期の頃は『真説・八正道』において、自己変革の意志のない人間は、真理を学ぶに値しないというほど、この教えは強調されました。

幸福の科学では、仏教で強調された「菩提心(悟りを求める心)」を「正しき心の探究」をする姿勢と捉えられ、それは今の自分、即ち仏の心境とは程遠い自分を変えていこうとする不断の努力を伴わねばならない、とされました
これが自己変革の教えで、自己変革の意志のない人間は、真理を学ぶ資格がないとまで強調されたわけです。

これは自力救済型の思想です。真理を学び、反省して、自分を変えていきなさいという思想です。その結果、悟りという名の幸福を得たならば、それを人に伝えていきなさいという思想へとつながりました。また自己変革をしようとする、その努力の過程においてこそ他力が働きかけるという思想が加わり、安易な他力信仰とは一線を画した斬新さがありました。

この自己変革の思想は、幸福の科学の大乗の時代に入るとともに、余り強調されなくなりました。しかし、なくなったわけではなく、自己責任の原則とセットで、「あなたは自分に問題があるのだから、自分が反省して自分を変えていきなさい」という、苦しんでいる人を突き放すような姿勢として、根強く残っていると思います

私は幸福の科学が愛の温もりを感じない冷たい組織になる一因が、この思想にあるのではないかと思います。この思想は、相手が救えなくても、救う側を免罪している部分があるのです。自己責任の原則、自己変革を要求する思想、これは自力救済を要求するからです。

その結果、苦しみの中にある人は、誰からも助けを得られず、孤独の中で苦しみ続ける事になります。これは私自身が、職員時代に強く感じてきたことです。これほど沢山の教えがあるのに、実際にはほとんど人が救えない。少なくとも自分の問題を解決できないで、延々と自分を責めながら信仰と勉強を続けている。そういうことが少なくないように思います。というより、私自身の職員時代が、まさにそうだったのです。

4.なぜ人を救済できないのか

これは、在家になってからも、実は長く苦しんだ問題でありました。私はカウンセリングを学ぶことで受容共感的理解という思想に触れましたが、幸福の科学に欠けているのが、まさにこの思想でした。「受容」と「共感的理解」というのは、思想というより、人の話を深く聞く傾聴の際の基本姿勢です。それが欠けているので、幸福の科学の教えは救済力を持ちきれず、真に心の救済ができる人間を育てられないのではないかと、非常に強く感じ始めています。

自己責任の教えがあるので、会員は不幸の原因や心の問題は自分にあるとして、自分自身を責めます。また幸福の科学の価値観に照らしてそれに反する思いが出たら、これを「抑圧」しようとします。思ってはいけないことを思ってしまったという反省は、単なる抑圧にすりかわります。抑圧された思いは、潜在意識に溜め込まれ、やがて自分自身がそれに支配されるようになっていきます。抑圧された思いが、コントロールできない怪物へと育ってしまうからです。

私は、欲望を統御できない自分、自己否定の心や劣等感を統御できない自分を、嫌というほど味わいました。しかし、葛藤の末に現実の中で挫折し、どうしようもない現実の自分を受け容れざるを得なくなり、「これが自分だ」と認め、自分を受け容れる(自己受容)ようになってから、運命が変わりだしたと思います。
弱弱しい自分がありました。プライドが傷つくことを畏れて現実に飛び込めない弱い自分があったのです。しかし、現実に飛び込んで、おぼれている自分も自分だと認めて、それを受け止めることが出来るようになれた。そこからが本当のスタートでした。

この段階で、私はそれまでほどには抑圧をしなくなりました。自分のあるがままの思いを見つめ、「これも自分だ」と、ある種の開き直りをしたからです。私はその頃は、これを単なる開き直りだと感じていたのですが、実はそれだけではなかったのです。あるがままの自分を見つめて、抑圧するのをやめたのです

やがて私は私の中のいやな思いに耳を傾け、決して否定せず、決して裁かず、受け止めて理解してくれる友人に出会いました。そこから、癒されて、再生していくプロセスに入り始めたと思います。

自分自身を振り返ってみると、どのような思いが出ようと、どのような行いをしようと、それを正直に認め、それが自分だと潔く認め、そういう自分を受け容れるところから、真の成長が始まったと思います。何故そのような思いが出るのか、その奥にあるものと向き合おうとしたときに、「不退転」という気持ちが湧きました。

5.相手の心に寄り添うという愛

人の救済においても、人は他人を救えるわけではありません。しかし、人は人が自らを救済することを援助することは出来ると思います。その方法は「相手の心に寄り添う」ということです。その人のあるがままを受け入れ、その人の身になってその人の気持ちを理解する努力をすることが、寄り添うということです。寄り添われた人は、やがて「自分自身を受け入れ、自分自身を信頼する」ようになります。寄り添う人は、その方が「自らの内なる力」で立ち上がることを心から信じて寄り添います。

言葉を替えると、他者から寄せられた信頼によって、人は自分自身を信じ始めるのです。信じる程度に応じて、力がよみがえります。すべてを裁かず受け止められ、理解されたという思いが、その方の心に癒しをもたらします。その愛が働くからです。人は愛によって、癒されていくのです。

私がさまざまな苦しみを経たときに、私の深層潜在意識、幸福の科学では魂の兄弟と言っていますが、彼らは涙を流して見つめてくれていたように思います。彼らは、やがては私がその苦しみから立ち上がり、苦しんだ経験でもって、人の苦しみにも寄り添える人間になることを、心から願っていてくれたと信じています。そして、要所要所で、さまざまな形での導きを与えてくださったことを感じています。いかに目に見えない応援があろうと、現実の苦しみを経験して試練を潜り抜けるのは私自身です。その過程で、私が知った苦しみや悲しみが、人を理解し、人を受け容れる力になる。それこそが苦しみの意味だったのではないかと、今は思っています。

私はカウンセラーとしても、まだまだ緒についたばかりです。それでものべ六百人の方をカウンセリングさせて頂きました。同時にまた、私自身が継続的にカウンセリングを受けながら、自分を成長させようとしています。

その経験から感じるのですが、自分の苦しみ悲しみをあるがままに受け止め、理解してくれる人に寄り添われることで、人は自分を成長させていく力を、本当に呼び出すことが出来ると思います。
それを愛と呼ぶのなら、愛ありてこそ、人は本当の自分、あるがままの自分と向き合うことが可能となるのだ思います。幸福の科学的な表現をすると、愛があってこそ真の反省が可能となる。愛がない反省は、自分と他人への裁きにしかならない
 最近の幸福の科学は、「愛を説いたはずの教団」から、愛の心が姿を消し、顕著に「裁きの集団」へと変化しているように感じます。


受容と共感的理解という、あるがままの自分と人を受け入れ理解しようとする愛の働きがなければ、決して人は変われないし、成長できないと感じています

「愛なき自己責任の思想」によって、自分を裁き、人を裁くのは間違っていると思います。愛は「愛が大切です」という言葉ではありません。愛は愛そのものの実践の中にしか姿を見せないものなのです。受容したり共感的に理解したり出来ない心は、愛の不在をもたらします。

私はこれまでの反省を踏まえて、カウンセラーとしての愛の道を全うしていきたいと思います。

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2 件のコメント:

  1. 感動しました。この項だけ別枠にしてトップページに張り付けて、常に見ることが出来るようにして頂きたいくらいです。本当にありがとうございます。

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  2. この記事を読むと、幸福の科学の本質が見えて来ますよね。

    そう、自己発揮、自己開発だけを追求する「仙人・天狗の教え」ですね。

    幸福の科学の説く「愛の教え」とは、「仙人・天狗同士、仲良くしなさいね」という

    教団としての保身的な愛なのです。

    だから、いつまで経っても信者同士、職員同士、仲が悪く、喧嘩ばかりしているのです。

    支部では、検定試験の資格維持だけが目的となり、リーダー信者と呼ばれる古参会員たちは皆、

    自己愛の塊のようになっています。

    なまじ愛の心があると、金蔓にされ、布施を強要されて、身包みを剥がれてしまいます。

    今では、支部に集う者は皆、文無しの老婦人だけです。

    これから大発展して、世界を救うような雰囲気は、全くありません。

    2020年のゴールデンエイジ??

    まず、100%、有り得ません。

    赤っ恥を晒す前に、三部作を全て、絶版にした方が利口ですよ。

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