2016年5月6日金曜日

三輪清浄(2)



(前回から続く)

3.三輪清浄のチェックポイント

三輪清浄についてある回答者が、インターネット上である質問に答えて、こう指摘していました。

「布施は単なる寄付行為ではないのですね。正しい布施(三輪清浄の布施)は天の蔵に徳が積まれることになりますが、そうでない布施は単なる寄付にしかならないということですね。生きている間はわからないことですから難しい問題ですし、悪い意味でそこに付け込む隙もありますね。」

確かにその通りだと思います。悪い意味でそこに付け込む隙があると思います。

K教団の信者の方々は、布施をしてすがすがしい気持ちになり、心が軽くなり、悟りが上がっている実感がありますでしょうか。
布施した時は興奮していてそう思うかもしれませんね。

でも布施をしたのち、はたしてどれぐらいの期間清々しい心を保てているのでしょうか?
時間の経過とともに変質してくる思いであれば、三輪清浄ではなかったということです

布施をすればするほど、名誉欲が増したり、恐怖心が増大したり、人と比較して苦しむ心で一杯になったり、みじめになったりすることはなかったでしょうか。布施が三輪清浄であれば、そんなことは起きないはずです。

布施をした時、さらにそれを後に思い出した時に、自らの心が正直に感じていることを味わってほしいと思います。そうすれば本物の三輪清浄の布施か、それとも真っ赤な偽物か、真実が判定できるからです。

4.後悔しないために

K教団では特に一千万円以上の高額の御布施をした方は、植福菩薩という称号をもらいます。
本当に菩薩の心になられているのでしょうか?
謙虚に自らを振り返って、本当に菩薩の境地に達していると思いますか?
客観的に見て、その方は本当に菩薩の境地におられるのでしょうか?

特にいつまでも植福菩薩であることを誇りに思い、記憶していることは、実は三輪清浄に反しているので注意が必要です
いつまでも覚えている布施は、仏教では三輪清浄とみなされません。

大般涅槃経に、「布施をした人、布施を受けた人、施した物、その三つを瞬時にお互いが忘れることが最上の布施である」と説かれています。
その心は、こういうことです。
「施しても施したという思いを起こさず、ことをなしてもなしたという思いを起こさない。ただ、それが賢いことであり、正しいことだからするのである。それは、母親が一枚の着物を愛するわが子に与えても、与えたという心を起こさず、病む子を看護しても、看護したという思いを起こさないのと同じである。」(大般涅槃経)

ですので、植福菩薩になったことが長く記憶され、自分を特別視する思いが出たり、周りも特別視を助長する行為をなすならば、三輪清浄とは言えません。

布施をして一時はよろこびに興奮していても、三輪清浄がなければ、あとで必ず後悔が出てきます。

施物であるお金が、ご主人に内緒で貯金や保険をひきだしていたものであるなら、施物の汚れにより、内心の後ろめたさに苦しむこととなります。
受者である教祖や教団が欲望でお金集めをしていた姿が見えてくると、大切なお金を無駄なことに使ってしまった後悔にさいなまれることになります。

そうした苦しみ、後悔のない、布施したことも忘れるすがすがしい布施こそが、三輪清浄なのです。


人生を後悔をしないためにも、三輪清浄の精神について、深く思いを致し、振り返っていただきたいと思います。そして三輪清浄に反した布施は、強要されても決してしないことが大切だと思います。

2016年5月4日水曜日

三輪清浄(1)



1.事業欲と金集め

最近K教団をやめた人の話をいろいろ伺っていますと、支部から送られてくるメールには、布施をせよ、布施をせよと、お金の話ばかり書かれているといいます。お金集めがどんどんエスカレートしてとどまることを知らないようです。

信者数が減少する中で、事業欲はどんどん肥大化していくので、信者への金銭の要求がエスカレートしていくのだと思われます。

K教団の教祖はかつて、オウム真理教を批判する中で、宗教は教祖の事業欲がかちすぎて信者の規模がその負担に耐えなくなると、その宗教は金集めのために極端なことをやり出すので警戒が必要だという趣旨の話をしました。K教団の現状を聞くにつけ、この話が思いだされます。そして危惧を感じるのです。

さて、前回のブログでご紹介しましたが、現在20人の元信者さんがK教団相手に納骨壇申込金や生前永代供養の申込金の返還訴訟をされています。K教団ではこうした返還訴訟の動きに対抗して、「〇〇〇は御布施なので返還を受けようとは思っていません」という趣旨の書面を書かせているようです。これは言うまでもなく訴訟対策だと思われます。

こうした動きを聞いて、仏教の布施の理念である「三輪清浄」について、あらためて考えてみました。

2.三輪清浄と天の蔵

「三輪清浄」についてインターネットで検索してみると、次のような簡略でわかりやすい説明がありました。

「三輪空寂ともいい、布施においては、与える者、受け取る者、布施される物のいずれも(三輪)が清浄でなければならない、というもの。
与える者が見返りを期待したり、受け取る者が欲望にとらわれていたりするようなら、それは商取引であって布施ではない。布施は、人の欲の心や執着心を離れなければならないのである。」

納骨壇の申し込みや、生前永代供養の申し込みは、もともと教団から対価としてのサービスの提供を受けることを期待して支払うお金ですので、厳密にいうと上記の意味での三輪清浄の布施には当たらないはずです。サービスの提供という「見返り」を「期待」して出されたお金だからです。
にもかかわらず、K教団がそれを「対価のない布施だ」というのは、税金対策です。

さて、信者に将来の返還請求権を放棄させるための書面の強要は、信者を「疑」を抱いて見ていることを意味します。信者の信仰心を疑っているわけです。これは受け取る側の心に汚れがあることにならないでしょうか。いったん受け取ったお金は絶対に返還したくないという、猛烈な「執着」が透けて見えるのではないでしょうか。

K教団は、教祖や職員の欲が非常に強いと思います。そして、その欲望を満たすために、目標必達を強制して、恐怖心をあおりながら信者を家畜化していく。それが、冷静にみると、K教団の真実の姿ではないかと思います。

布施が集まらないと天変地異が起きて不幸が広がるという恐怖の予言をして、恐怖心をあおって布施を集めるのは、悪魔が信者を奴隷化する行為であって、仏とは真逆の行為であることを見抜かねばならないと思います。

受け取る側が清浄でない以上、三輪清浄はありません。布施の受者として失格です。

仏教修行者が信者の布施を受け取るのは、信者の方に心の世界に功徳を積んでいただくことを願っての行為でなければならないはずです。原始仏教では悟りを開いた修行者(阿羅漢)への布施は、大いなる功徳をその信者にもたらすと説かれていました。だからこそ、真剣に修行に打ち込み、悟りを探究することが、布施を受け取る修行者に課せられた責任であったと思います。はたしてそういう気持ちが、K教団の「出家者」の方にあるのでしょうか。

もう一つ、原始仏教では衣や食料が施物の主なものでしたので、修行者は無執着の心で、どんな布施でも差別せず、施者の幸せを願って受け取るということが修業であったと思います。現代で言えば、わずかの額を布施する信者に対しても、高額の布施をする信者に対しても、ひとしく平等の心で接するということです。

K教団の現実はこれとは真逆です。高額な布施をする人は優遇し、褒め称え、わずかの布施しかできない人は冷遇されています。お金がない信者は、いつもみじめな思いで支部に通うことになります。これはK教団の現実です。ここには三輪清浄の精神はありません。

三輪清浄の布施でないということは、天の蔵に功徳が積まれていないということです。「あの世に還ったとき、自分は天の蔵に徳を積んでいるので、来世は豊かな暮らしができる」と信じていた信者は、死んだあとで、霊界にある天の蔵の中が空っぽであることに気づいて愕然とされるのではないでしょうか。

(次回に続く)

2016年4月12日火曜日

納骨壇や永代供養申込金の返還に関連して――ご注意事項



最近のK教団の動きとして、納骨壇や永代供養の申し込みをした信者に対して、申込金は御布施なので返還を受けようとは思っていません、といった趣旨の書面を出すように指導されていると聞いています。

昨年4人の元信者が提起した返還訴訟で敗訴したことから、返還請求の裁判への対抗策として教団側がこうした動きを進めていると思われます。

このような行いは宗教者として清い行いとは思えません。
何故なら、信者の未来の行動を疑っているからです。
そのための予防手段として、この様な書面を作って署名させるのですから。

この段階ですでに三輪清浄ではありませんね。

布施の心得については語るまでもありませんが、布施といいながら「疑の心」を持った受者は清浄の状態ではないからです。
自己保存を考えての行動は、正しい宗教者の心ではないでしょう。

宗教的観点から言えば、このような書面に署名を求めてくる段階で、このような教団の納骨壇や永代供養を申し込むことは邪教の供養を受け、納骨壇に入ることを意味していると思います。それは魂の死でもあるでしょう。


ただ、この世的においては、このような書面を提出していると、将来返還を求める際には裁判で不利になる可能性がありますので、注意をされてよく考えて行動されることをお勧めします。

2016年4月9日土曜日

(投稿)洗脳解除そして脱会へ⑨――裁きの目の克服



(おことわり)

これは以前頂いた投稿です。補足のご案内を掲載していたところ、最新のブログの扱いになりましした。ブログの操作が不慣れのため、関連の投稿記事と切り離されて、読みづらい面があると思います。でも苦しい境遇の中で必死に愛を実践した経験を書いてくださいました。裁きの目で見ずに愛の目で見たときに、職場で奇跡が起きた体験です。洗脳で身につけた裁きの目は、こうした実践を通して変わっていくのではないかと思います。あらためて感謝申し上げます。

(投稿)愛の実践のために

 私がある会社の幹部時代に経験した事ですが、お店のお金が無くなった時がありました。十数万円の売上金です。一人ずつ面談をして探ります。そうするとほぼ確実に犯人Aの推測がつきます

 でも下手に決め付けると私が訴えられます。本人は白状しません。複数の管理者はAさんが悪人に見えています。


私は困りました。再度、面談をしていきました。

Aさんに

「店の売上金がなくなった場合、店舗管理者が責任を取って補てんするのがルール(社内規定)です。査定も給与も下がります。管理者は子供が小さくお金が必要な時で、店の補てんより自分の子供の為に使いたかったと思っているでしょうね。じっと耐えているが妻と子供の顔が浮かんでいると思います。」

と話したのです。


そしてみんなでもう一度探すことにしたのです。

驚いた事にAさんが

「机の間の隙間からお金が出てきました。」

と言って見つけたのです。

これは明らかに嘘です。みんなは既に悪人の目で見ています。店舗責任者は恨み憎しみの目です。懲戒処分や警察が頭に浮かんでいます。


私は店舗管理者と他の管理者とAさんだけにしました。そして話しました。

「Aさん、これ以上嘘を言っても誰も信じはしません。しかし、よくお金を戻してくれましたね。ありがとう。これで店舗責任者は少なくとも補てんしなくてよくなりました。何かお金が必要な事があったのですか。」

と言った所、涙を流しながら

「あなたから店舗管理者の子供の話を聞いて、私も人の親ですから胸が痛みました。それで…。私の主人が病気で入院を繰り返しているのです。私は離婚も考えましたが私がいないと主人は生きられませんから。でもお金が底をついてきて…。警察等の処分はお任せします。(号泣…)」

直後にAさんの主人が病気入院していたのは事実と判明しました。


私はAさんのいうことを信じることにしました。そして、悪人の目で見ている管理者に

「私はもう一度信じることにします。人間には苦しくてどうしようもない時があり、魔境が来ます。誰にでもあることです。人を許せばいつか自分も許される。人を裁けばいつか自分も裁かれる。自分の幸福はやはり他人の幸福を想う所に見出せると私は思います。この涙が真実なら主人の命もかかっているのでしょう。みなさんはどう思いますか。」

と言ったところ、なんと店舗管理者が

「許します。もう一度一緒に出直しましょう」

と真っ先に言い出したのです。そうするとみんなが

「Aさん、お金が必要ならみんなでカンパしますから言って下さい。」

とまで言い出したのです。


私は経営者に電話で全て話をしたら経営者も心を打たれたのか、自らの思いに対して私に

「私はAさんの心に気づいてあげられなかった」

と反省の言葉を言われ、何も無かったことに決まったのです。


そして、Aさんは、心からの反省と感謝で命を吹き返し、人の愛とは何か、善悪とは何か、幸福とは何かを知ったのです。みんなの愛する愛の想いがAさんに許しを与え、Aさんは生きる力を与えられたのです。Aさんは、それから誠実に笑顔で頑張りました。


愛の目で見た結果、管理者の裁きや怒りの心が慈悲の心に変わったのです。




洗脳解除の役に立つ参考図書のご案内
 http://tanemura2013.blogspot.jp/2016/03/blog-post_30.html


2016年3月9日水曜日

K教団の金銭感覚…在家時代を振り返る(2)



組織に溜まる不満

熱烈信者であればあるほど、教祖や教団の方針に疑問や不満を持つことを自分に禁じます。それは「疑」であり、「悪魔のささやき」であるから、「不満も疑問も持ってはならない」と、一種の宗教的な「禁止令」を自分に対して発令するのです。

そうした典型的な熱烈信者でも、現場で活動していると疑問に思うことが増えてきます。

二度目の選挙の時です。支部で選挙運動のために毎日婦人部の人たちと行動しているうちに、彼女たちと連帯感のようなものが生まれてきたころ、彼女たちの本音を聞く機会がありました。
毎日手弁当で活動している女性信者が、活動にお金を使っているので、教祖のビデオを見るお金がない苦しみ語ってくれました。当時のビデオは、選挙運動の活動のエネルギー源でした。それを聴いて、自分を奮い立たせて活動したかったのです。特に一度目の選挙で惨敗した後は、在家の活動信者は自分を奮い立たせるものが欲しいのです。でも、お金がないので見ることもできない。それほど活動していない一部の裕福な人はビデオを見ている。活動してお金を吐きだしている婦人部の人は見れない。これは不公平ではないかという不満が溜まっていて爆発寸前でした。

彼女たちに懇願されて、支部長にお願いしました。支部長は地方本部長と相談して、ごく一部の人にだけ、こっそりビデオを無料で見せるという裁量を示しました。「教祖の方針には表だって逆らえない。しかし、不満が広がらないようにしたい」という思惑が透けて見えるようでした。

この経験から、在家信者の中に溜まっている布施を巡っての激しい不満と、教祖のあくまでお金を払わせろという強硬な方針、そのはざまにあって政治的な裁量をする現場の組織の実態に触れました観自在のはずなのに、教祖は現場の信者の気持ちを感じ取っていないように思えました。それがとても疑問でした。

最初に感じた在家信者の怒り

教祖と教団の方針や指示に対して、激しい怒りを感じたこともありました。

最初の選挙の時です。教祖が気に入らないと、選挙活動の途中にもかかわらず政党の党首の首を何度もすげ替えました党首の変更に伴い、その都度ポスターが取り替えられることには、正直言って怒りを覚えました。一枚のポスターを張らせていただくだけでも、在家信者が一生懸命に地主さんにお願いして、さんざん断られた末にようやく一枚張らせていただくという、まことに手間暇のかかる仕事です党首が変わるたびに、そのポスターを貼り換えなければならず、それまでの苦労と捧げられた時間が無駄になります。徒労でした。

さらにカラー刷りの豪華なポスターの印刷費用も、信者の方々の懸命の布施で賄(まかな)われているにもかかわらず、それが次々と無駄になっていくのです。
「一体何のためにこれだけ党首を変えるのか。信者ですらもうはや党首が誰かわからない。それでいてK党の名前の認知度をあげたいと望むのは、あまりにもばかげている。お金も時間も全部無駄にしている。」
そう思い、怒りを感じました。

そして選挙期間中も教祖が次々と出してくるDVDの説法を見ました。最初の選挙では、こうしたDVDは、どの支部でもほぼ無料でボランティアで選挙活動する信者に見せていました。しかしそれをあとで知った教祖が激しく怒り、お金を取るように厳命したと聞きました。

あまりのがめつさにあきれるとともに、事あるごとに金を吸い取ることしか考えていない教祖の方針に疑問を感じ始めました。国のためにK党のために、仕事を休んでまで駆け付けた人々への感謝もなければ、その労に報いるでもなく、あくまで信者からお金を吸い取ることしか考えていないことを知ったからです。

そのあげくに、何人目かの党首に、教祖自らが立っての惨敗です。

2週間というもの、仕事を完全に中断して選挙運動に専念してきましたので、活動と結果のあまりのお粗末さと、時間とお金と労力を布施してくださった信者さんたちの真心を無駄に浪費してしてゆく姿を見て、怒りを覚えたのでした。

「信者の尊い布施や献身を何と考えているのか。」
「切り詰めた生活の中から絞り出して捧げてくださった尊い行為を、いとも簡単にどぶに捨てるような真似を、どうしてできるのか。」
教団には現場の人の気持ちが何一つわからぬ証拠だ。」
「教祖は現場の人の思いも苦しみも分かってはいない。教祖は信者の気持ちが何一つわからないのではないか」
と、そう思い始めましました。

布施はお金だけではありません。捧げられた時間も、奉仕もすべて布施です。それを少しでも大切にし、一つも無駄にしないという精神が、この教団運営からは消えていました。これはとても傲慢な、感謝のない姿だと思えてなりませんでした。


関連記事 三輪清浄(1)(2)




2016年3月8日火曜日

K教団の金銭感覚…在家時代を振り返る(1)



出家と在家と除名を経験して

K教団で熱心に活動する人は、お金を出し尽くしてゆきます。次から次からお金が必要になり、お金を出せば出すほど悟りに近づけるように思い、さらにお金を出せば出すほど信者や教団から祝福されるので、布施がやめられなくなります。まるで布施依存症のようです。そして金銭感覚が狂っていきます。

私はK教団の最初の12年間を職員、いわゆる出家者として関わり、還俗(退職)して後、ほぼ同じ期間を在家信者として関わりました。お金を集め、もらう側と、お金を布施し、差し出す側を両方経験しました。そして除名処分を受け退会してから、納骨壇等の申込金返還訴訟等に声援を送り、退会する人の相談にも乗ってきました。

そうした中で、K教団の金銭感覚の異常さを身をもって痛感しました。あらためて気づいたことを率直に書いてみたいと思います。

在家時代と御布施

四十代の初めに還俗してより十数年間、K教団の在家の信者として活動し布施をしてきました。在家としてのK教団の宗教活動で、どのぐらいお金がかかるものなのでしょうか。

これは人によって差異はありますが、読者に具体的なイメージを持ってもらうためにある研究員・男性の事例を書いてみたいと思います。

この男性は定額の布施として毎月1万円を植福の会で納めました。また原則毎月2回の支部祈願(一件5000)と毎月一回の精舎祈願(一件3万円)を継続していました。祈願は信仰心を高める行為であると教えられていたので、効果がなくても毎月実践したわけです。さらに、時々、教祖の御法話拝聴会(DVD)を支部へ見にいきました。一回5000円です。これで月額55,000円になります。
それ以外に精舎研修は年一回の論文研修を受け3万円の研修費と交通費です。さらに、毎年の研究員の資格維持のための試験で5000円。また、できる年には他の精舎研修(交通費・祈願込みで10万円程度必要)に参加したり、10万円程度の特別植福をしていました。このほか、映画のある時は100枚のチケット購入で15万円、献本書籍の100冊購入で約20万円の出費をしていました。

熱心なある女性信者だと、支部へ通うための遠方よりの交通費や電話代、自宅での集いの経費や毎月20冊程度の書籍購入なども加わって、毎月の基本的な出費だけでも10万円程度の支出をしていたといいます。食費や被服費は極端に切り詰めてねん出するのです。

人によっては借金をしても布施している人もいました。会社の経理を預かっている熱烈信者の奥様が、会社のお金をご主人に内緒で布施していたという話は、複数の人から聞きました。もちろん家庭争議が起こります。

K教団では毎年半年毎に「○○精舎の建立のために」「降魔型〇〇像」とか、さまざまな名目で信者一人当たり最低でも10万円以上の特別植福を集めます。こういう場合は、組織で活動をしていると、信者同士の横のつながりもあるので、やらないわけにはいかない気持ちになります。

しかもK教団の場合は、布施しても布施しても、次から次へと布施の機会が続き、これで終わりということがありません。その疲労感は結構なもので、それが蓄積してゆきます。


布施ができないと、仏の役に立てないことへの罪悪感取り残されていくような気持ちに襲われ、また支部に行って支部長の顔を見るのがつらくなるので、支部に自分の居場所を確保するためにも布施は必要になります。そんな気持ちが根っ子にあって布施せざるを得ないという在家信者は少なくありません。

2015年12月17日木曜日

(投稿)私がKKを退会した理由



(紹介)

KKを退会されたある元会員のCさんから投稿をいただきました。CさんがどうしてKKがおかしいと思われ退会を決意されたのかの理由は、教団や信者の病んだ側面をあぶりだしていると思います。KKを退会しようかどうか迷っている方々の参考になることを願います。

(投稿)私が退会した理由

洗脳!

私がKKを退会したのは十年近く前だったと思います。

私は会員をしていた頃から現在もコーチングを教える仕事としております。会員だった頃はKKの働く女性の会のイベントの講師として近隣の支部を回ることもしておりました。ですので、私の仕事のクライアントとして、KKの会員の方達がお見えになることはめずらしくありませんでした。

退会した当時は、自分の仕事のインストラクターの養成と育成等をしていましたので、以前ほど熱心に支部活動はしていなかったのですが、来られる会員の方達のお話しをうかがう機会には恵まれていました。

本当に多くの方がお布施のために借金やローンを組んでいたり、自分がお布施をするために好きでもない人と結婚したりしているということを知りました。

私が長く所属していた支部の私のいた地区ではそういう話しは聞いたことはなく、自分もそこまでしてお布施するとは考えたこともしたこともありません。最初は信じられませんでしたが、違う方から何回も聞くことがあり信じることにしました。

おまけに自分達がおかしいという感覚が全くないように感じ、マインドコントロールされているということに気づきました。

リーダー会員の実態!

KKのある支部の支部長から、婦人部の主要メンバーの教育をしてほしいと頼まれて、私はボランティアとして支部で数名のグループを指導しました。その時に経験したことが転機となりました。

その時に、支部の婦人部の主要な数名の方にコーチングをさせてもらいました。対象はある程度年配の方で、複数の方を同時に指導させていただきました。その中のお一人の方は億単位のお布施されている菩薩信者です。

そのときに、生まれた時から現在までを一枚の紙に点数化して表していただきました。マイナス100点からプラス100点の間で、自分の今までの人生を振り返って自分で思い出に残る出来事に点数をつけてそれを線でつないで人生のグラフを作っていただきました。

参加者の全員が、共通してマイナス点が多くてプラスの出来事が少ないと思いました。高額のお布施をされている方でも思ったよりも喜びは少なくて、将来への不安が強く、幼少時から家庭内での承認欲求、賞賛欲求が満たされず、心の傷を持っているとのことでした。

他の方達もそれぞれに同じように、承認欲求が満たされない人生を歩んできていると思っていらっしゃったように思います。

私は、彼女たちに書いていただいたものをもとに質問して各自に説明いただいた時に、彼女達が今幸福と言える状態にないことを知りました。さらに関心事項が自分中心で視野が狭いことも特徴だったように思います。いろいろなものを見ないように思考が制限されているように感じたので、「洗脳されているのではないだろうか」という印象を持ちました。

結局、その時に、婦人部の主要メンバーの方達の自己肯定感の低さや褒められたいという気持ちの強さを知り、KKの説く真理とはなんぞや? という疑問をもったのです。何年もKKという宗教に身を捧げていらっしゃるのにも関わらず、あまりにも一般的、俗物的な問題を抱えていらっしゃることに、疑問をもったからです。

「この方達が自分の幸福をつかむということはこのKKから離れることを意味するのではないか」と思いました。退会した年の春の話です。

裸の王様!

その夏の選挙の講演会では、教祖のドタキャンがあり、仕事の取引先のグループの支配人をお呼びしていた私は、理由を聞きたくて総本部に電話したのです。しかし、たらい回しにされたあげくバカにしたような対応で、これで通用すると思うこの教団の甘さと頭の悪さに驚きました。その後のビデオ会でも、教祖本人は出て来ることなく側近のあきれる幼稚な言い訳を聞いて、教祖の人間性の低さと人間の心理の読めなさに改めて恐れ入り、退会しようと思いました。

裸の王様‼ って本当にいるんだ」と知りました。人をバカにし過ぎです。ご自分のレベルが高いと思い込んでしまっているから物事や人間を客観的に見れないのだろうと考えています。

以前から霊言等のお話で誰々に悪霊が憑いているとか誰々の前世は誰々という類の話しに対して、「それって先に言ったもん勝ちじゃない?」「ナンカ変」と私の場合、極めて人間的な観点から常々疑問に思っていました。ですので、退会するにあたって教祖への信仰心は全くありませんでした。

ある支部では、セミナーで総合本部の講師の方が来られると支部長はペコペコし過ぎるのを目にしました。さらにこれまでのお布施の額で、本部の講師の方の会員に対する態度が目に見えて変わるのには本当に驚きました。
支部長に直接、どうして本部の講師にはそんなにペコペコするのか伺ってしまいましたが、納得できるようなお答えはいただけませんでした。

こういうことが積み重なって、私は退会しました。

決別!

今思うのですが、自分を含めて、KKの信者の方たちの多くは機能不全家庭の出身者で、人格形成の基本となる親からの「無条件の愛」というものを体験しないまま成人している方が少なくないのではないかと思います。失礼ながら職員の方達も。恐らく、教祖も教祖の前の奥様もそうなのかもしれないと思います。

職員の方達と教祖は信者に依存していて信者をコントロールしていますが、信者も共依存状態になっているのだと思います。そして、両方共に自己確立がなされないまま時間だけが過ぎているように思います。

私自身は、機能不全家庭に育ち、自分が悪いのだとずっと思い込んできましたが、何かがおかしいと気づいて自己確立への道を歩んでいくために、一時的にKKが必要だったのだと思います。


最終的には欲しくない納骨壇を買わされたり、支部等で不当な扱いをされることで、KKが本当におかしいと気づいて退会することができたことはラッキーだったと考えています。それにより、それまで常に自分が悪いのだと思い込まされそれを信じてきたニセモノの自分がいることをようやく認識できて、KKと訣別できたからです。(C