2018年4月23日月曜日

納骨壇・永代供養返還訴訟で原告有利に和解成立の見通し




一部漏れ聴くところによれば、KK教団に対して元信者の方々が集団で提訴していた返還訴訟裁判で、原告側の主張がほぼ認められる形で和解が成立する見通しがでてきた模様です。

この裁判は、この教団に所属していた元信者の方々が、納骨壇の申込料や永代供養料を返還するように教団側に求めて起こしていたものです。(参考③)

この裁判では、最高裁の判例(参考①)をもとに、大多数の原告は9割の返還が確実だとみられていましたが、一部の元信者の方は教団側の要請により返還を求めない趣旨の同意文書に署名していたため、その扱いを巡って難航していたようです。

しかし、最近になって教団側が態度を軟化させたため、原告に相当有利な形で和解の方向へと進む可能性が出て来たとのことであり、元信者の方々には喜ばしいことです。

ここからは私の希望的観測ですが、この変化の背景には、消費者保護法などの施行に伴う「消費者保護」の社会的な潮流の変化に教団側がきちんと対応されようとしているのではないかと愚考します。つまり元信者の救済に一定の理解を示し、元信者の経済的な幸せに配慮するように姿勢を転換しているのではないかと。これは私の期待を込めた憶測です。

いずれにせよ、KK教団が元信者のお金の返還を求める切実な声に耳を傾け、元信者の方々の経済的な幸福にも配慮するような方向へかじを切るのであれば、これは極めて喜ばしい変化だと思います。

今後、同教団がさらに成熟され、いままで教団発展に貢献されてきた元信者の方々の経済的な幸福にも手を差し伸べるような、寛大で社会的な良識にみちた教団へと成長されることを強く願っています。

なおこの返還訴訟の関連記事は下記のとおりです

参考①最高裁の判決

参考②最高裁の判例に対するKK教団の従来の姿勢等

参考③今回の裁判に関する記事


2016年10月24日月曜日

退会した人々の話



最近週刊新潮に、KKが退会希望者に対して、自由に退会させず、支部長面談をし、さらには退会後の行動も規制するような退会届を書かせているという記事がありました。要するに退会者に、退会後の教団批判を封じるような誓約をさせる内容になっているというのです。

実際に、退会した人に話を伺うと、この記事の通りの誓約付きの書面だったといいます。

異なる支部の人から同じ話を複数聞きましたので、全国的にそうなったのでしょう。

しかし、退会を決意した人は、ゆるぎない気持ちで支部長に向き合う人が多いようです。

支部長に真っ向から挑んで「もう○○を信じられませんからやめます」と断言して辞めたという話は、多くの人から聞きました。

退会には家族の自筆がいるというので、それならばと、家族全員で支部に行き、堂々とやめた方もいます。こういうやり方は、家族に教団の実態に触れてもらえるので効果があると思いますし、なによりも家族に対して誠実だと思います。

直接ご本人から聴いた話ですが、遠方で支部まで行くのが嫌なので、公証人役場に行き退会意思を公証人に確認してもらって、封書で退会届を出したという方もいました。

どなたも、自分の退会意思が確固たるものであることを、工夫して伝えておられるようです。

なお、納骨壇を買われた方からは、奉納金は布施であって返金できないという念押しを、やはり支部の人からしつこくされたという話をよく聴きます。最後まで、お金だけは返さないという執着の強さは半端ではありません。

しかし、これも簡単に諦めてしまわずに、返還訴訟を担当している弁護士の先生に事前に相談されるほうがいいと思います。

また、信教の自由が保障されている日本では、退会した後の行動を制限する権利はどんな教団にもないので、正しいと確信されたことは堂々と人に話されてよいと思います。

特に、いままで伝道して縁遠くなっていた友人知人や親せきには、KKをやめたことを伝えることをお勧めします。どのかたも、「良かったね。心配していたよ」と、退会したことを喜ばれ、温かく迎えてくださるようです。

これによってKKに入って狭くなっていた世間が広がったという話をよく聴きますし、また世間がKKをどう見ているのかを、肌で感じることができたといいます。

退会を告白することは、人間関係を取り戻す第一歩だと思います。


2016年5月6日金曜日

三輪清浄(2)



(前回から続く)

3.三輪清浄のチェックポイント

三輪清浄についてある回答者が、インターネット上である質問に答えて、こう指摘していました。

「布施は単なる寄付行為ではないのですね。正しい布施(三輪清浄の布施)は天の蔵に徳が積まれることになりますが、そうでない布施は単なる寄付にしかならないということですね。生きている間はわからないことですから難しい問題ですし、悪い意味でそこに付け込む隙もありますね。」

確かにその通りだと思います。悪い意味でそこに付け込む隙があると思います。

K教団の信者の方々は、布施をしてすがすがしい気持ちになり、心が軽くなり、悟りが上がっている実感がありますでしょうか。
布施した時は興奮していてそう思うかもしれませんね。

でも布施をしたのち、はたしてどれぐらいの期間清々しい心を保てているのでしょうか?
時間の経過とともに変質してくる思いであれば、三輪清浄ではなかったということです

布施をすればするほど、名誉欲が増したり、恐怖心が増大したり、人と比較して苦しむ心で一杯になったり、みじめになったりすることはなかったでしょうか。布施が三輪清浄であれば、そんなことは起きないはずです。

布施をした時、さらにそれを後に思い出した時に、自らの心が正直に感じていることを味わってほしいと思います。そうすれば本物の三輪清浄の布施か、それとも真っ赤な偽物か、真実が判定できるからです。

4.後悔しないために

K教団では特に一千万円以上の高額の御布施をした方は、植福菩薩という称号をもらいます。
本当に菩薩の心になられているのでしょうか?
謙虚に自らを振り返って、本当に菩薩の境地に達していると思いますか?
客観的に見て、その方は本当に菩薩の境地におられるのでしょうか?

特にいつまでも植福菩薩であることを誇りに思い、記憶していることは、実は三輪清浄に反しているので注意が必要です
いつまでも覚えている布施は、仏教では三輪清浄とみなされません。

大般涅槃経に、「布施をした人、布施を受けた人、施した物、その三つを瞬時にお互いが忘れることが最上の布施である」と説かれています。
その心は、こういうことです。
「施しても施したという思いを起こさず、ことをなしてもなしたという思いを起こさない。ただ、それが賢いことであり、正しいことだからするのである。それは、母親が一枚の着物を愛するわが子に与えても、与えたという心を起こさず、病む子を看護しても、看護したという思いを起こさないのと同じである。」(大般涅槃経)

ですので、植福菩薩になったことが長く記憶され、自分を特別視する思いが出たり、周りも特別視を助長する行為をなすならば、三輪清浄とは言えません。

布施をして一時はよろこびに興奮していても、三輪清浄がなければ、あとで必ず後悔が出てきます。

施物であるお金が、ご主人に内緒で貯金や保険をひきだしていたものであるなら、施物の汚れにより、内心の後ろめたさに苦しむこととなります。
受者である教祖や教団が欲望でお金集めをしていた姿が見えてくると、大切なお金を無駄なことに使ってしまった後悔にさいなまれることになります。

そうした苦しみ、後悔のない、布施したことも忘れるすがすがしい布施こそが、三輪清浄なのです。


人生を後悔をしないためにも、三輪清浄の精神について、深く思いを致し、振り返っていただきたいと思います。そして三輪清浄に反した布施は、強要されても決してしないことが大切だと思います。

2016年5月4日水曜日

三輪清浄(1)



1.事業欲と金集め

最近K教団をやめた人の話をいろいろ伺っていますと、支部から送られてくるメールには、布施をせよ、布施をせよと、お金の話ばかり書かれているといいます。お金集めがどんどんエスカレートしてとどまることを知らないようです。

信者数が減少する中で、事業欲はどんどん肥大化していくので、信者への金銭の要求がエスカレートしていくのだと思われます。

K教団の教祖はかつて、オウム真理教を批判する中で、宗教は教祖の事業欲がかちすぎて信者の規模がその負担に耐えなくなると、その宗教は金集めのために極端なことをやり出すので警戒が必要だという趣旨の話をしました。K教団の現状を聞くにつけ、この話が思いだされます。そして危惧を感じるのです。

さて、前回のブログでご紹介しましたが、現在20人の元信者さんがK教団相手に納骨壇申込金や生前永代供養の申込金の返還訴訟をされています。K教団ではこうした返還訴訟の動きに対抗して、「〇〇〇は御布施なので返還を受けようとは思っていません」という趣旨の書面を書かせているようです。これは言うまでもなく訴訟対策だと思われます。

こうした動きを聞いて、仏教の布施の理念である「三輪清浄」について、あらためて考えてみました。

2.三輪清浄と天の蔵

「三輪清浄」についてインターネットで検索してみると、次のような簡略でわかりやすい説明がありました。

「三輪空寂ともいい、布施においては、与える者、受け取る者、布施される物のいずれも(三輪)が清浄でなければならない、というもの。
与える者が見返りを期待したり、受け取る者が欲望にとらわれていたりするようなら、それは商取引であって布施ではない。布施は、人の欲の心や執着心を離れなければならないのである。」

納骨壇の申し込みや、生前永代供養の申し込みは、もともと教団から対価としてのサービスの提供を受けることを期待して支払うお金ですので、厳密にいうと上記の意味での三輪清浄の布施には当たらないはずです。サービスの提供という「見返り」を「期待」して出されたお金だからです。
にもかかわらず、K教団がそれを「対価のない布施だ」というのは、税金対策です。

さて、信者に将来の返還請求権を放棄させるための書面の強要は、信者を「疑」を抱いて見ていることを意味します。信者の信仰心を疑っているわけです。これは受け取る側の心に汚れがあることにならないでしょうか。いったん受け取ったお金は絶対に返還したくないという、猛烈な「執着」が透けて見えるのではないでしょうか。

K教団は、教祖や職員の欲が非常に強いと思います。そして、その欲望を満たすために、目標必達を強制して、恐怖心をあおりながら信者を家畜化していく。それが、冷静にみると、K教団の真実の姿ではないかと思います。

布施が集まらないと天変地異が起きて不幸が広がるという恐怖の予言をして、恐怖心をあおって布施を集めるのは、悪魔が信者を奴隷化する行為であって、仏とは真逆の行為であることを見抜かねばならないと思います。

受け取る側が清浄でない以上、三輪清浄はありません。布施の受者として失格です。

仏教修行者が信者の布施を受け取るのは、信者の方に心の世界に功徳を積んでいただくことを願っての行為でなければならないはずです。原始仏教では悟りを開いた修行者(阿羅漢)への布施は、大いなる功徳をその信者にもたらすと説かれていました。だからこそ、真剣に修行に打ち込み、悟りを探究することが、布施を受け取る修行者に課せられた責任であったと思います。はたしてそういう気持ちが、K教団の「出家者」の方にあるのでしょうか。

もう一つ、原始仏教では衣や食料が施物の主なものでしたので、修行者は無執着の心で、どんな布施でも差別せず、施者の幸せを願って受け取るということが修業であったと思います。現代で言えば、わずかの額を布施する信者に対しても、高額の布施をする信者に対しても、ひとしく平等の心で接するということです。

K教団の現実はこれとは真逆です。高額な布施をする人は優遇し、褒め称え、わずかの布施しかできない人は冷遇されています。お金がない信者は、いつもみじめな思いで支部に通うことになります。これはK教団の現実です。ここには三輪清浄の精神はありません。

三輪清浄の布施でないということは、天の蔵に功徳が積まれていないということです。「あの世に還ったとき、自分は天の蔵に徳を積んでいるので、来世は豊かな暮らしができる」と信じていた信者は、死んだあとで、霊界にある天の蔵の中が空っぽであることに気づいて愕然とされるのではないでしょうか。

(次回に続く)

2016年4月12日火曜日

納骨壇や永代供養申込金の返還に関連して――ご注意事項



最近のK教団の動きとして、納骨壇や永代供養の申し込みをした信者に対して、申込金は御布施なので返還を受けようとは思っていません、といった趣旨の書面を出すように指導されていると聞いています。

昨年4人の元信者が提起した返還訴訟で敗訴したことから、返還請求の裁判への対抗策として教団側がこうした動きを進めていると思われます。

このような行いは宗教者として清い行いとは思えません。
何故なら、信者の未来の行動を疑っているからです。
そのための予防手段として、この様な書面を作って署名させるのですから。

この段階ですでに三輪清浄ではありませんね。

布施の心得については語るまでもありませんが、布施といいながら「疑の心」を持った受者は清浄の状態ではないからです。
自己保存を考えての行動は、正しい宗教者の心ではないでしょう。

宗教的観点から言えば、このような書面に署名を求めてくる段階で、このような教団の納骨壇や永代供養を申し込むことは邪教の供養を受け、納骨壇に入ることを意味していると思います。それは魂の死でもあるでしょう。


ただ、この世的においては、このような書面を提出していると、将来返還を求める際には裁判で不利になる可能性がありますので、注意をされてよく考えて行動されることをお勧めします。

2016年4月9日土曜日

(投稿)洗脳解除そして脱会へ⑨――裁きの目の克服



(おことわり)

これは以前頂いた投稿です。補足のご案内を掲載していたところ、最新のブログの扱いになりましした。ブログの操作が不慣れのため、関連の投稿記事と切り離されて、読みづらい面があると思います。でも苦しい境遇の中で必死に愛を実践した経験を書いてくださいました。裁きの目で見ずに愛の目で見たときに、職場で奇跡が起きた体験です。洗脳で身につけた裁きの目は、こうした実践を通して変わっていくのではないかと思います。あらためて感謝申し上げます。

(投稿)愛の実践のために

 私がある会社の幹部時代に経験した事ですが、お店のお金が無くなった時がありました。十数万円の売上金です。一人ずつ面談をして探ります。そうするとほぼ確実に犯人Aの推測がつきます

 でも下手に決め付けると私が訴えられます。本人は白状しません。複数の管理者はAさんが悪人に見えています。


私は困りました。再度、面談をしていきました。

Aさんに

「店の売上金がなくなった場合、店舗管理者が責任を取って補てんするのがルール(社内規定)です。査定も給与も下がります。管理者は子供が小さくお金が必要な時で、店の補てんより自分の子供の為に使いたかったと思っているでしょうね。じっと耐えているが妻と子供の顔が浮かんでいると思います。」

と話したのです。


そしてみんなでもう一度探すことにしたのです。

驚いた事にAさんが

「机の間の隙間からお金が出てきました。」

と言って見つけたのです。

これは明らかに嘘です。みんなは既に悪人の目で見ています。店舗責任者は恨み憎しみの目です。懲戒処分や警察が頭に浮かんでいます。


私は店舗管理者と他の管理者とAさんだけにしました。そして話しました。

「Aさん、これ以上嘘を言っても誰も信じはしません。しかし、よくお金を戻してくれましたね。ありがとう。これで店舗責任者は少なくとも補てんしなくてよくなりました。何かお金が必要な事があったのですか。」

と言った所、涙を流しながら

「あなたから店舗管理者の子供の話を聞いて、私も人の親ですから胸が痛みました。それで…。私の主人が病気で入院を繰り返しているのです。私は離婚も考えましたが私がいないと主人は生きられませんから。でもお金が底をついてきて…。警察等の処分はお任せします。(号泣…)」

直後にAさんの主人が病気入院していたのは事実と判明しました。


私はAさんのいうことを信じることにしました。そして、悪人の目で見ている管理者に

「私はもう一度信じることにします。人間には苦しくてどうしようもない時があり、魔境が来ます。誰にでもあることです。人を許せばいつか自分も許される。人を裁けばいつか自分も裁かれる。自分の幸福はやはり他人の幸福を想う所に見出せると私は思います。この涙が真実なら主人の命もかかっているのでしょう。みなさんはどう思いますか。」

と言ったところ、なんと店舗管理者が

「許します。もう一度一緒に出直しましょう」

と真っ先に言い出したのです。そうするとみんなが

「Aさん、お金が必要ならみんなでカンパしますから言って下さい。」

とまで言い出したのです。


私は経営者に電話で全て話をしたら経営者も心を打たれたのか、自らの思いに対して私に

「私はAさんの心に気づいてあげられなかった」

と反省の言葉を言われ、何も無かったことに決まったのです。


そして、Aさんは、心からの反省と感謝で命を吹き返し、人の愛とは何か、善悪とは何か、幸福とは何かを知ったのです。みんなの愛する愛の想いがAさんに許しを与え、Aさんは生きる力を与えられたのです。Aさんは、それから誠実に笑顔で頑張りました。


愛の目で見た結果、管理者の裁きや怒りの心が慈悲の心に変わったのです。




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 http://tanemura2013.blogspot.jp/2016/03/blog-post_30.html


2016年3月9日水曜日

K教団の金銭感覚…在家時代を振り返る(2)



組織に溜まる不満

熱烈信者であればあるほど、教祖や教団の方針に疑問や不満を持つことを自分に禁じます。それは「疑」であり、「悪魔のささやき」であるから、「不満も疑問も持ってはならない」と、一種の宗教的な「禁止令」を自分に対して発令するのです。

そうした典型的な熱烈信者でも、現場で活動していると疑問に思うことが増えてきます。

二度目の選挙の時です。支部で選挙運動のために毎日婦人部の人たちと行動しているうちに、彼女たちと連帯感のようなものが生まれてきたころ、彼女たちの本音を聞く機会がありました。
毎日手弁当で活動している女性信者が、活動にお金を使っているので、教祖のビデオを見るお金がない苦しみ語ってくれました。当時のビデオは、選挙運動の活動のエネルギー源でした。それを聴いて、自分を奮い立たせて活動したかったのです。特に一度目の選挙で惨敗した後は、在家の活動信者は自分を奮い立たせるものが欲しいのです。でも、お金がないので見ることもできない。それほど活動していない一部の裕福な人はビデオを見ている。活動してお金を吐きだしている婦人部の人は見れない。これは不公平ではないかという不満が溜まっていて爆発寸前でした。

彼女たちに懇願されて、支部長にお願いしました。支部長は地方本部長と相談して、ごく一部の人にだけ、こっそりビデオを無料で見せるという裁量を示しました。「教祖の方針には表だって逆らえない。しかし、不満が広がらないようにしたい」という思惑が透けて見えるようでした。

この経験から、在家信者の中に溜まっている布施を巡っての激しい不満と、教祖のあくまでお金を払わせろという強硬な方針、そのはざまにあって政治的な裁量をする現場の組織の実態に触れました観自在のはずなのに、教祖は現場の信者の気持ちを感じ取っていないように思えました。それがとても疑問でした。

最初に感じた在家信者の怒り

教祖と教団の方針や指示に対して、激しい怒りを感じたこともありました。

最初の選挙の時です。教祖が気に入らないと、選挙活動の途中にもかかわらず政党の党首の首を何度もすげ替えました党首の変更に伴い、その都度ポスターが取り替えられることには、正直言って怒りを覚えました。一枚のポスターを張らせていただくだけでも、在家信者が一生懸命に地主さんにお願いして、さんざん断られた末にようやく一枚張らせていただくという、まことに手間暇のかかる仕事です党首が変わるたびに、そのポスターを貼り換えなければならず、それまでの苦労と捧げられた時間が無駄になります。徒労でした。

さらにカラー刷りの豪華なポスターの印刷費用も、信者の方々の懸命の布施で賄(まかな)われているにもかかわらず、それが次々と無駄になっていくのです。
「一体何のためにこれだけ党首を変えるのか。信者ですらもうはや党首が誰かわからない。それでいてK党の名前の認知度をあげたいと望むのは、あまりにもばかげている。お金も時間も全部無駄にしている。」
そう思い、怒りを感じました。

そして選挙期間中も教祖が次々と出してくるDVDの説法を見ました。最初の選挙では、こうしたDVDは、どの支部でもほぼ無料でボランティアで選挙活動する信者に見せていました。しかしそれをあとで知った教祖が激しく怒り、お金を取るように厳命したと聞きました。

あまりのがめつさにあきれるとともに、事あるごとに金を吸い取ることしか考えていない教祖の方針に疑問を感じ始めました。国のためにK党のために、仕事を休んでまで駆け付けた人々への感謝もなければ、その労に報いるでもなく、あくまで信者からお金を吸い取ることしか考えていないことを知ったからです。

そのあげくに、何人目かの党首に、教祖自らが立っての惨敗です。

2週間というもの、仕事を完全に中断して選挙運動に専念してきましたので、活動と結果のあまりのお粗末さと、時間とお金と労力を布施してくださった信者さんたちの真心を無駄に浪費してしてゆく姿を見て、怒りを覚えたのでした。

「信者の尊い布施や献身を何と考えているのか。」
「切り詰めた生活の中から絞り出して捧げてくださった尊い行為を、いとも簡単にどぶに捨てるような真似を、どうしてできるのか。」
教団には現場の人の気持ちが何一つわからぬ証拠だ。」
「教祖は現場の人の思いも苦しみも分かってはいない。教祖は信者の気持ちが何一つわからないのではないか」
と、そう思い始めましました。

布施はお金だけではありません。捧げられた時間も、奉仕もすべて布施です。それを少しでも大切にし、一つも無駄にしないという精神が、この教団運営からは消えていました。これはとても傲慢な、感謝のない姿だと思えてなりませんでした。


関連記事 三輪清浄(1)(2)